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秋の夜の玻璃戸を叩く冷雨冴え後シテをまつ野守の太鼓(注)
『早笛』昭和三十年刊
 昭和二十四年、私は二十一歳ですでに岩佐高等女学校の国語教師であった。昭和二十二年から喜多流の能の宗家喜多実に入門し、熱烈な信奉者となって、その演能を追っていた。もちろん他流の観能にも熱心で、毎週能を観ずにすごすことは考えられなかった。
 しかし、戦後の能は興行としてはほとんど成立せず、後には国宝になるような方々が手弁当のような有様で勤めておられた。この歌に詠まれた能「野守」のシテは喜多実、太鼓は柿本豊次だった。昭和二十四年十一月十二日のことで、朝から寒く、冷たい雨が降っていた。そのせいもあってか、戦災をまぬかれた駒込の染井能楽堂(現在の横浜能楽堂の建材になっている)の升席には客足が少なく、数えてみると何と三十人余りの寒々とした見所(けんしょ)だった。
 駆け出しの観能者ながら、若い情熱だけは人一倍激しく燃えていた私は、まるで演能を一人で引き受けて観るような意気込みで舞台をみつめていた。歌とはふしぎなもので、上手下手を問わず、この拙い旧作をみると、今もその時の退くことは許されない心意気のようなものが立ちかえってくる。
 後シテは鬼神なので、ノリのよい、勇壮な花やかさがある出端(では)の囃子の太鼓が打たれ、心の高揚が誘われているのに、背後には冷たい雨が薄いガラス戸を打つ音をひびかせ、火の気のない客席はがらんとして、しんしんとした冷気に覆われていた。しかし、舞台はやがて激動する鬼の、勇躍の心をのせた華麗な力演に移ってゆくはずである。
 今からは考えられないだろうが、この頃はよく演能中の停電があった。この日も前シテの中で停電があった。楽屋から蝋燭の灯が運ばれ、その灯りで観る能もけっこうな御馳走だった記憶がある。さらに言えば、この日のシテは演能後、その装束を大きなリュックに詰めて、背負って帰られた。内弟子のお供さえない戦後の能の一風景である。今日につづく私の能とのつき合いの中でも、忘れられない一コマである。(歌集では「ハリ戸」となっている)

(注)ルビを付した表記は次の通り。
秋の夜の玻璃戸を叩く冷雨冴え後(のち)シテをまつ野守(のもり)の太鼓