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ゆめの中だけにある駅潮騒す海に線路を越えてゆくいつも
『飛天の道』二〇〇〇年九月刊
 よく夢をみる私だった。歌にもしばしば題材となっている。その夢の中で一番悲しい思いになるのが父母の夢である。ここにあげた歌には直接父や母は登場しないが、この風景と深くかかわっており、私自身はすでに父母の存在を感じている。潮騒の聞こえる駅がある、その向うに松原があり、海が広がっている。私はその松原の方へ線路を越えていくのだが、その線路を越える時の気持が、何ともいえず苦しくさびしいのだ。父母の家はどうも松原のどこかにあるはずである。
 線路を前に何を躊躇するのかまだ考えたことはない。いまそのことを考えると、海の潮騒が寄せてくる松原は明るくなく、さびしい空間なのだ。その領域に入って小さな父母の家を訪ね、小さくなった貧しい父母を見ることに心屈する思いがある。しかし、そんな場所に父母が住んでいたことは一度もなく、父は体躯の大きい人で、どんなに困窮している時も話は大風呂敷の方で、天下人のように豪語していた。
 ここにあげた歌は海に向かって線路を越えてゆくというだけの情景なのに、一つの風景の中にその景よりも濃く実在する情念があることをかき添えてみた。よく夢をみる方だから楽しい夢も少なくない。繰返しみる夢もある。沢山旅をしているのに、旅の夢はただ一つ。色彩もある。どこかの山から下りの道で、紅葉が美しい。あたりには残雪が残っていて、下りゆくままに露天の温泉があり、喜ばしい気分で目がさめる。
 もう一つは、掲出歌と同じく一九九八年の「かりん」七月号にある歌で、これはみなし子的孤独におそわれ、めざめが悪い。「誰もゐない坂を下ればバス停がある深い深いゆめのたそがれ」。いつの日かの体験にあったのかもしれないが、バス停はあるけれど、いつまでたってもバスは来ない廃線のようだ。こうした本拠に辿りつけない夢もよくみる夢の一つである。