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テレビ台の裏にゴキブリは棲みをりて深夜わが前を静かに歩む |
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『あさげゆふげ』二〇一八年十一月刊 |
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今どきゴキブリのいない家はまずいないと思うが、(今年は異常な暑さできわめて少なかった)生活文化を考える上ではまさに古代以来の長いつきあいである。とはいえ、私がゴキブリに気づいたのは戦後のこと。台所の漬物桶や、味噌がめのあたりにいつもいる虫という認識であった。別に悪さもしないので手で払って退散すればそれでよかった。
好きではないが、厨にいる虫なのである。それが昭和バブル経済の時期を迎えて物が豊かになるとゴキブリも勢を増したのであろう。私のゴキブリとのつきあいは、現在地に家を建て「かりん」誌を発行するようになってからだ。ある夏、全開の窓から弾丸のように飛び込んできたまっ黒な力強い虫、平然と畳の上に着地したそれは、かなり大きく、蝉かと思ったほどだ。山棲みのゴキブリである。茶羽のひょなひょなしたのとは種類がちがうようなゴキブリだ。
それから後、ゴキブリは厨房にも出入りするようになった。雑誌作りに集まる女性歌人にはこういう虫が黴菌を媒介しているという恐怖心をもつ人もいて、ゴキブリは蠅以上の敵になってゆく。
叩いても叩いてもゴキブリは増え、駆除の薬や用具が工夫されるとともにゴキブリは強くなり、私は面倒で、ゴキブリの同居を許すようになった。きっと昔の人もそうだったに違いないと思ったりして。ただ、目の前にあらわれた時は叩くというルールを作った。そのうちゴキブリはわが居間のどこかに住みはじめ、冬は暖かな部屋を求めてテレビ台の裏などに出入している。最近はゴキブリの体力が弱くなり、活発には動かない。夏の終り厨房の隅にへたりこんでいる黒羽のゴキブリをみると、「もうダメになったか」と声をかけたくなる。ある日、そんなゴキブリとのつきあいを二十首ほどの連作にしてみた。冒頭にあげた歌はその第一首。歌の結句に置いた「静かに歩む」は、もうどこか、同居人の歩みのようだ。
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