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喜多文子と雁金準一と碁を打ちてゐるなり古き手箱の中に
『あさげゆふげ』二〇一八年十一月刊
 この歌は二〇一七年九月十二日、椿山荘で第四十二期囲碁名人戦七番勝負の第二局の観戦を許された時の回想の中のもので、二〇一八年一月号の「短歌研究」に載せた三〇首の中にある。いまこの歌を機に奇しき縁を感じる二人のことを書き留めておきたい思いになったのは、歌ったような場面の写真を、「かりん」の渡辺泰徳さんから見せられたのがきっかけである。
 喜多文子は私が七十年に及んで師家と仰いだ能の喜多流十四代宗家、名人の名をほしいままにした喜多六平太夫人で、女性の棋士の草分的存在として日本棋院の設立にも貢献した女性、名誉八段を追贈された人物である。一方、雁金準一は幼少の頃からその天才が囲碁界だけでなく政界にも認められていた俊英であったが、日本棋院と対峙する棋正社の総帥として、本因坊後継の争いに敗れ、その力量を惜しまれながら悲劇的な晩年を送った。雁金準一の生涯は団鬼六によって『落日の譜』として小説化されている。
 その雁金準一が、戦前に喜多文子と碁を打っている部屋はどうも喜多家の二階の、文子の部屋のような気配がある。文子は女の子とは思えないほど気性の強い子だったらしく、碁の初段を取るまでは坊主刈りで、男装をしていたという。初段は十五歳で認められた。写真にみる二人の表情もじつに穏やかで、そんな荒々しい過去があったとはとても思えない春風駘蕩の雰囲気をみせている。何とも心温まるものを感じさせる。二人は十番勝負を争ったこともあった。
 ところで、このようになるまでの雁金の人生を支えたのは、準一の娘婿となった渡辺昇吉九段であった。私を感動させた一枚の持主はその息子で、ついに棋士にはならなかった渡辺泰徳その人である。渡辺さんは現在「かりん」の坂井欄で活躍中であり、近代の囲碁のきびしい歴史を父君の後姿からみつめてきた。つまりは雁金準一の孫ということになる。