告知板
ホーム
概要&入会案内
今月の内容
さくやこのはな
かりん作品抄
時評
ライブラリー
リンク
会員ひろば
かりんネット歌会
お問い合わせ
 九月はじめに還暦前後の女性の歌集が相次いで、上梓された。米川千嘉子の『牡丹の伯母』と小島ゆかりの『六六魚』である。
  デモをゆくひとりひとりよ母親はみどりごの髪の匂ひをかぎて
                                米川千嘉子
  もの食ふは命の仕事寒の夜をやつさもつさと毛蟹食ふなり
                                小島ゆかり
 米川は社会を詠うものが多かったが、重たい主張を込めつつも軽々とした歌いぶりである。デモにとても個人的な幸福な場面を配し、一人一人の問題としてデモに参加するという今や、「むかし鬼の秘術で造りし大臣(おとど)ありこの答弁の人にあらずや」のようなユニークな視点で国会答弁の大臣を風刺する。
 小島は重圧ある多忙の日々を押し返すように朗らかにうたいとめる。毛蟹の歌は「やつさもつさ」の俗な言い方が生き、上句の想いをユーモラスに変えて、かなしくおかしい。「われに似る小さき人よ今日の日を君は忘れよわれは忘れず」など孫の歌が増えたのも印象的だ。
 長寿の現代、還暦は人生の折り返し地点となった。ゆく方と来し方を等分に思いみられる充実の時なのだ。二歌集は時代の重さを見据えながら、軽やかである。
 田中教子は「短歌往来」一月号「うたの小窓から」第一回で、永井裕、雪舟えま、今橋愛の歌を57577で呟いてみただけで、修辞も何もないと酷評した。
 柳澤美晴は同誌五月号の評論「棒立ち、だったのか」で、田中の文章が、三人を見出した穂村弘の名を出さないことを指摘し、穂村がかつて述べた「棒立ちのポエジー」「一回まわった修辞」という評言がいまだ「呪縛」すると捉える。短歌サイト「歌葉」を中心に棒立ちの作風が醸成されたとし、その魅力を認めつつ欠点も指摘する。野口あや子、澤村斉美以降、新たな歌体が生み出され、多士済々の新人が登場しているのに、いまだ適切な批評用語を見出しえぬことが課題と書いた。
 染野太朗は同誌十月号で「〈読み〉への理解と共感をめぐって」を書き、柳澤の〈読み〉や現況の認識に異議を唱える。日常語のニュアンスを意識した〈読み〉をするべきとの主張があったが、染野の文章は永井らの歌にそれほどの弁護はない。
 近年、ライトバースやニューウエーブ以降、その影響下にある口語風短歌のみで短歌史を語るという文章が増えた感がある。短歌史は視野広く捉えたく、そんな流れだけではない。田中の酷評にも、柳澤の把握にも、その思いが感じられた。棒立ち系の歌は、解釈はいらず、皆が作歌の意図の読み取りかたを競って話題となったが、それはすでに色褪せてみえた。

※( )内は前の漢字のルビ