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 「相聞」が詠われないと言われて久しいが、総合誌や同人誌を読むと、まずます詠われているではないか、という印象を常々持ってきた。
 第三十回歌壇賞座談会で三枝昂之が、吉井勇の〈君にちかふ阿蘇のけむりの絶ゆるとも万葉集の歌ほろぶとも〉を取り上げ、「こんな濃い恋の歌はnoサンキューです」と現代の女子大生に言われたと述べた。吉井の歌には対象となる相手に真っ直ぐに思いをぶつける熱さがある。従来「相聞」として詠まれてきた歌に込められてきたのは、このような〈われ〉から〈相手〉へ向けられる熱量であった。有名な〈たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子『森のやうに獣のやうに』〉にも、心身ともにさらわれることを願うような熱量の高い思いが相手へと向けられている。
 では、三枝世代よりも後に生まれた世代はどのような「相聞」を今、詠っているか。最近立ち止まったのは、例えばこのような歌だ。
  僕達と二人を括ることのないきみが見ている月を見ている
                 黒﨑聡美 『つららと雉』
  あをじろきことばしづめてふる雨に恋はるることなき腕をのばせり
                  田口綾子『かざぐるま』
 黒﨑の歌はその場を少し俯瞰しているようなカメラワークであり、映し方によって人物の関係性やほのかな情が滲んでくる。〈われ〉から〈相手〉への一方通行の情を表現するのとは違い、場の持つ空気でなにかを述べる、叙景歌といっても差し支えないような雰囲気がある。田口の歌は、届かない思いを込めて腕を伸ばすのではなく、雨に濡らすことで恋われないことを、身体で再確認しようとする、心の震えを感じる。小島なおは「歌壇」二〇一九年三月号の佐佐木定綱との座談会で、身体の関わりよりも「精神的に合う」関係性に喜びを感じる現代の恋愛を語る。
 歌壇賞の座談会で水原紫苑は〈「どうして現代に相聞歌がないのか」も大テーマですよ〉と指摘する。この発言に思うのは、思う相手に求めるもの、そしてそれに伴う「相聞」の描き方が、かつてと今では少なからず変化していることだ。現代の「相聞」に従来の「相聞」と同程度の熱量を求めて鑑賞すると、「相聞」未満として受け止められてしまう現象が世代の間で起こっているのではないか。
 相手への呼びかけや、相手を求める心を熱量高く述べる恋の歌は減り、相手の内面と繋がろうとする〈われ〉や場面を俯瞰し、身体を伴う表現においても、それを通してその内面に秘められた、人を求める心を描く「相聞」。心を述べることから描くことへ、詠われ方が変化している。