告知板
ホーム
概要&入会案内
今月の内容
さくやこのはな
かりん作品抄
時評
ライブラリー
リンク
会員ひろば
かりんネット歌会
お問い合わせ
 歌集の復刊が相次ぐ中、岡崎裕美子の第一歌集と第二歌集の合本『発芽/わたくしが樹木であれば』が文庫本として発売された。『発芽』については、文庫版のあとがきに「長く絶版で、わたしの手元にもなくなり、『読んでみたい』という方へ断りの手紙を何回か書いたりした」とあるように、長いこと復刊が待ち望まれていた歌集だ。
 絶え間なく抱かれ続けるわたくしのからだではもうなくなってしまう
 はい、あたし生まれ変わったら君になりたいくらい君が好きです。
 『発芽』は、誰かを受け入れる「からだ」が強調される一方、主体の意志が曖昧な歌が多い。一首目、「絶え間なく抱かれ続ける」ことが、主体の望んだことなのかは書かれていない。ただ、長い性交のなかで、自分の「からだ」をだんだん相手に明け渡してゆく感覚が、三句目から結句までのひらがなで書くことで表現されている。二首目は一読すると君に一途な歌に思えるが、初句の「はい、」は何だろう。もし相手に「俺のこと好きだよな」と尋ねられての返答であるのなら、これは相手の言葉を受けてものであり、本心ではない可能性がある。
 主体の意志が曖昧なのと同様に、相手の存在もはっきりしない。ここに挙げた一首目と二首目が同じ相手なのかもわからない。曖昧さについては、岡井隆が解説の中で「女も男も、確たる肉体をもたず、また人格もあいまいである。(略)男女は、現実となる一歩手前のところで、精霊の性の踊りををどってゐる」と評しているが、筆者は、主体と性交する意志があれば相手の肉体も人格も問わないということだと考える。これは、相手によって差をつけたくないという気持ちがあり、このために主体の意志は曖昧なのではないだろうか。意志を表明することは、誰かを選択することであり、他者の間に差をつけることになるからである。
 銀河から降りくるすべてのものたちを受けとめるためひろげる手のひら
 わたくしがピアノなら低く鳴るだろう誰が弾いても(あなたの手でも)
 『わたくしが樹木であれば』から引いた。銀河からは様々なものが降ってくるが、主体はそれらを受け止めようと大きく手のひらを広げる。二首目、ピアノの低い音は重たい印象があるが、主体がピアノであった場合、誰が弾いても同じ音がするという。第二歌集には夫の他に、恋人と思わしき人物が登場するが、恋人との恋愛に溺れることも、夫に肩入れすることもない。一見すると、不道徳に思われるかもしれないが、目の前の相手に平等に接しようとする姿勢こそが岡崎の歌の特徴であり、岡崎の誠実さが表れているのである。