告知板
ホーム
概要&入会案内
今月の内容
さくやこのはな
かりん作品抄
時評
ライブラリー
リンク
会員ひろば
かりんネット歌会
お問い合わせ
 ハリウッドスターに端を発する「#Me Too」を使ったセクハラ告発運動や、NHK「おかあさんといっしょ」で発表された歌の炎上騒動など、「女性」を巡る社会的な動きはメディアやSNSを介して大きなうねりを見せている。歌壇においても、「短歌」時評で瀬戸夏子が燃えるような文章を書いたのは記憶に新しい。今年に入ってから、佐藤通雅が同時評で瀬戸の文に応じるように短歌と性差の問題に触れていたが、首を傾げるところが少なくなかった。特にジェンダー論などは世代や性別によって理解の分かれるところがあり、難しい問題でもある。
  好きな人の名を大声で呼ぶことの恍惚を思う焼香の列で
  わたくしを感知せぬ自動ドアの前見つからぬまま生くを思えり
 昨年刊行された岡崎裕美子の第二歌集『わたくしが樹木であれば』から引いた。恋の多い歌集である。夫以外の男性との恋愛など、どきっとさせられる。一方で、父の死やその喪失感、存在の不安など人生の翳りのようなものが詠われ、単に明るいだけではない。そんな一冊の中で、楔のように時折打ち込まれるのが「子を産まない私」に目を向けた歌である。
  使われぬ(だろう)臓器の桃色を思うときふいに眠たくなりぬ
  子のいない老人はみなさみしいと産まぬわたしに母は言いたり
 ライフスタイルの多様化が進みつつある中でも、子どもをもたないことへの外圧は依然として存在し、その選択への後ろめたさを抱かざるをえない状況がある。女性として生きることに「妻」や「母」が含まれてしまう価値観を、いかに文学の中で逃れるか。逃れられるか。
 こうした「産む性」への違和感は、野口あや子『眠れる海』にも散見される。
  産むだけなら産んでみたきよ団栗の帽子を掌であたためながら
  子はまだかとかくもしらじらたずね来る男ともだちの目に迷いなく
 結婚はまだか、子どもはまだか、という問いは刃となりうる。文学ははその「痛み」を作品へと昇華する。社会からの外圧は出産に限らず、性別にも関わりない。一切が消え失せる日が夢物語だとしても、少しずつ、緩やかに刃は丸くなるに違いない。その時、今ある「痛み」はリアルに感じ取れるだろうか。
 日常生活を営む者として痛みのない社会を目指しながら、創作する者として詩情のスパイスのように痛みを使ってしまえる──この矛盾への答えはまだ出せない。ただ一つ言えるのは、我々は、常に「痛み」に対して敏感であるべきだということだろう。