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 少し前にこんなツイートをしたことがある。

 GUNJI kazuto
 初めて来た日、この辺りの壁に蛾の卵が付いていた。蛍光灯は今も点滅している。
 /工藤吹「Pools」(短歌研究2023年7月号)

 実はいままで句点の効果をあまり考えずに読み/詠みをしてきたのだけど、自分の中では詠嘆に近い味がするなと今更ながら思った。
 僕はふだん俳句も書いていて、そちらは文語旧かなにしているのだけど、俳句では頻繁に「や・かな・けり」を使っている。これらは「切字」と呼ばれているが、ただ時空間を転移させるだけではなく、一般に、強調・詠嘆のニュアンスを持って使用されているケースが多いと思う。これが、口語で短歌や俳句を作るとなると、急に助詞助動詞の選択肢が減り、詠嘆的な意味合いを出しづらくなって不便だなと、たまに感じていた。
 髙良真実さんの砂子屋書房月のコラム五月分では、山階基『夜を着こなせたなら』を例に、口語短歌の詠嘆について少し論じられている。書評の書き方をレクチャーするパフォーマンスとして書かれている文章なので、若干正面から受け止めづらいが。

 満月よありがとうから消えていく言葉にしてもしなければなお
 遠い日の首に捺された痣のことどんなしるしと思えばいいの
 /山階基『夜を着こなせたなら』

具体的には「よ」と「疑問形」を用いた作歌例から、髙良は山階の歌集を「歌集を貫く主題として口語短歌の詠嘆を扱ったのは山階が初の例ではないだろうか」と評価する。歌集単位による評価に特に言うことはないのだが、素朴に疑問に思ったのは、名詞に「よ」が付く詠嘆も「疑問形」による詠嘆も、そもそも「口語」文脈が関係なくとも扱えるものではないか、ということである。文法的な選択肢が減った「口語」だからこそ出現する詠嘆の形は、また別にあるのではないか。
僕が「口語短歌」とみなされている歌群の中で、文法的には詠嘆しているわけではないのに、詠嘆のように新しく機能していると解釈できてしまった歌は、冒頭に挙げたような、句読点を使用している歌のことだ。これは現代の散文との関係から生まれる読みだが、まず、短歌一首には句読点をわざわざ使用しなくてよいという一般通念がある。そこで句読点が用いられると、それは「技法」として評価され、ある種の「演出」だと解釈できる。散文であれば次の文が行にそのまま続くところを、一首は同種の〈間合い〉を持ちながら、それでいて永遠に一首として孤独に〈感〉を滲み続けるのだ。これが僕には、詠嘆に近く思えた。