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 SDGsという言葉が市民権を得た昨今、市民も歌人も自然について考えることの重要性は増している。そうした社会的背景のなか「短歌往来」(二〇二一・一)特集「現代の自然を詠む」を興味深く読んだ。一般的に自然詠と人事詠という区別が当然のようになされているが、改めて考える時代がきているように思う。自然と人がある程度共存している時代もあったが、こと現代においては必ずしもそうとはいえないからである。
 琉球古酒舐めにくる蝶あまたゐてわれはしばらく酒売るをんな
               馬場あき子『記憶の森の時間』
 南島は濡れ濡れとして生まれたり破水のことき朝のスコール
               松村由利子『耳ふたひら』
 馬場の歌は琉球の深い森が舞台だ。古酒に誘われて蝶が集まるという観光上の演出だが、蝶に〈酒売るをんな〉とあると、おもろそうしに出てくる神と交歓している場面とも読める。松村の歌は南島全体から湧き上がる原始的な生命感を女性の破水に喩えている。石垣島の生命力と都市生活者の視点が同居している。馬場も松村も眼前の自然に対し、歌人としての問題意識を交錯させながら詠っており、自然と人は二項対立ではないのである。
 携帯電話の電波を嫌う椋鳥の大群が私から逃げてゆく
               齋藤芳生『桃花水を待つ』
 齋藤は福島を舞台に自然を詠っている。携帯電話の電波は渡り鳥のコンパス機能に障害をもたらすという説がある。引用歌集では阿武隈川の水質汚染がフォーカスされるが、それ以外にも斎藤の問題意識は及んでいる。
 本当は植物たちからこの星を借りているだけ 枝毛みつけた
               笹本碧『ここはたしかに 完全版』
 環境批評の視点からみると笹本は従来の自然詠から一歩進んだ視点がある。近代以降、自然は美しいというテーゼがある。それゆえ自然は写生の対象になった。丘浅次郎が「いわゆる自然の美と自然の愛」(一九〇五・五/時代思潮)で自然は美醜善悪兼ね備えており、美しいという価値観はキリスト教の影響によるものであると述べている。つまり自然詠は逆説的に人間主義でもあるのである。笹本の歌は人間も自然の一部であるということを、枝毛というユーモラスな素材を使って詠うことで、逆説的に自然と人の関係を表現している。今日、若山牧水の『みなかみ紀行』のような自然誌はもう書かれないかもしれない。しかし、自然と社会が複雑に交わる様は新たな生態系ともいえる。短歌は長く自然を詠んできたが、新たな生態系を表現するには、短歌文脈から離れて自然を捉えなおすことが必要だ。