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 「若者の短歌作品が現代社会の「生きづらさ」やその中で葛藤する「切実さ」という言葉で語られるようになった大きな契機は、二〇一一年に第五四回短歌研究新人賞を受賞した馬場めぐみの「見つけだしたい」三十首ではなかったか。この一連も収録された第一歌集『無数を振り切っていけ』が刊行された。
 歯ブラシで排水口をひたすらにこする時の目でなにもかもを見る
 点滅をしているみたいな次の日を手でも足でも歯ででも摑む
 「排水口」という非常に生々しい、汚い場所を掃除する、という行為と、自らが生きる社会の「なにもかもを見る」という行為とを結びつけたことで生まれた一首目の迫力や、二首目の「手でも足でも歯ででも摑む」とたたみかけるように詠われた「次の日」への渇望。当時から今に至る閉塞感や息苦しさを、馬場は見事に代弁してみせた。歌集には次のような歌もある。
 声帯を離れたのちも意味という身体を持たぬ震え まばゆい
 馬場の作品から「生きづらさ」「切実さ」を読み取ることができるのは、「目」「手」「足」「歯」「声帯」といった身体の部位と、それらの感覚が巧みに取り入れられているからだろう。「一首の語り手は現代を生きる生身の人間である」と言外に示すと共に、その身体感覚を読者と共有するのである。
 自らの身体やその感覚を、どのように表現するか。歌人によってそのアプローチの仕方は様々だ。馬場と一歳違いである川島結佳子の第二歌集『アキレスならば死んでるところ』も見てみよう。
 私には水分があり肉があり骨があり踏めば吊り橋揺れる
 目を閉じて空腹だけになる私を吊り下げながら運ぶ地下鉄
 この二首はいずれも作中の「私」が自分自身の身体を意識から切り離して捉えなおそうとしている。一首目の「私」の身体は意識の中で「水分」「肉」「骨」にばらばらにされているのだが、それは揺れる「吊り橋」を渡っているから。二首目も結句で「地下鉄」の吊り輪に掴まって揺られている場面であると種明かしされる構成になっているのだが、自分が「空腹だけ」になったという捉え方が個性的で面白い。しかし、それぞれが自分の存在の不安定さや虚しさ、つまり「生きづらさ」の喩でもある。
 さて、私たちの身体が感じることができるのは、「生きづらさ」や「切実さ」だけではないだろう。自身の身体をどう認識し、何を感じ、どう表現するか。追究してゆくと、社会詠も職場詠も厨歌も相聞も、まだまだ可能性があるのではないだろうか。