|
|
 |
 |
|
|
 |
「風土」とは何か。『現代短歌大事典』を改めて繙くと、〈一般的には、その土地固有の気候や地味等の自然条件を意味するが、短歌の世界では、その土地で生活している人間とのかかわりでとらえられた自然を意味する。その点では「風土」は、自然であると同時に文化である。〉とある(執筆は伊藤一彦)。
「地方の国道沿いの風景が日本中同じになった」と言われるようになって久しい。私が暮らす福島市も例外ではなく、ガソリンスタンドもファストフード店も、さらには受験予備校も、もれなく並んでいる。一概に否定するつもりはない。これは日本中どこに暮らしていても、消費者として同じサービスを受けることができるという「機会の平等」なのだから。しかし、福島という土地が育んできた独自の「風土」を期待して訪ねて来た旅行者にとっては「つまらない」だろうし、かつては当然のものとして共有されていたその土地の郷土史や文化が「機会の平等」と反比例して喪われてゆくのは「もったいない」ことだ。この話は国内に限らない。白状すると、かつてアブダビで日本語教師として働き始めたとき、アブダビという中東の都市にも日本と同じファストフード店があり、街中を日本車が走っていることを、私も「つまらない」と思ったのだ。そして昔ながらの民族衣装や生活を垣間見ることができると、心がときめいた。振り返って思う。あの時私が無意識に求めていたのは「もの珍しさ」という刺激であって、「風土」ではなかったのだ、と。
大空を鳶一羽まふ早春の風のあかるき日在の浦は
日高堯子『日在浜』
海よりの東風ややつよし鷗外の「鷗荘」のありたりしあたり
刊行されたばかりの日高堯子歌集『日在浜』に収められた「成東、日在」の一連には、この「風土」が殊に色濃く滲む。「わたしの生地の千葉県いすみ市(旧夷隅郡)にある古くからの景勝地です」とあとがきで述べられている「日在浜」は、伊藤左千夫や森鷗外とも縁の深い土地である。詠われているのは現代に生きる作者と同じように「日在の浦」で空を舞う鳶の姿を仰いでいただろう人々や、幼少の伊藤左千夫、「鷗荘」で執筆に勤しんだ鷗外たちが確かに存在して生きていた、その残り香が漂う空気である。単なる郷愁や「もの珍しさ」ではない。
現代短歌における「風土」はどこへゆくのだろう。SNSなどを通した「機会の均等」が進むと共に消えてしまうのか。あるいは様々な試みを一巡した後の新たな可能性として、再発見されるのか。発見、と言うのは烏滸がましい気もする。「風土」はどこで暮らしていても、空気のように私たちの周りにあるものだから。
|
|
 |
|