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 うすぐらき読影室に青白く若き肺野は開かれており
 死を告げて来たりし夜を刻むごと雨こぼしたり紫陽花の街
 林祐一の第一歌集である『Curriculum(カリキュラム) Vitae(ビタエ) / ポリクリノート』より引いた。一首目は医師である主体=作者が「読影室」で患者の肺の放射線画像を見ている場面。「肺野」は本来医学用語だが、この言葉に含まれる「野」という文字と「開かれて」という動詞が響き合い、さらに「青白く」と色彩が加えられたことで、一首に神秘的な空気感が生まれている。浮かび上がるのは、医師として人体の不思議に真向かっている作者自身の姿だ。患者の命を救うことができなかった無力を雨の中噛みしめる――おそらく涙をこぼしながら――二首目は、「夜を刻むごと」「紫陽花の街」という比喩が哀しくも美しい。
 もう一冊、小原奈実『声影記』も見てみよう。明示されてはいないが、小原もまた短歌と医学を同時期に志し、医師となって現在に至る。
 剖(ひら)きゆく刃のしびれむか言語野の白さ柔さは雪にあらねど
 底冷えよ圧しゐる者の手の熱が胸骨の上のみに移りゐき
 「言語野」とあるから、一首目は人間の脳を解剖している場面であろう。実習中だろうかとも想像する。主体=作者だけではなく歌人である私たちとって、まさに歌を生み出す部位である脳の「言語野」にメスを入れるのである。それを「雪」に喩えた。「白さ柔さ」は、そのまま人間や言葉の「儚さ」に他ならない。二首目では、懸命に救命措置をしたけれどもついに患者を救えなかった、という無念が詠われている。胸部圧迫を続けた「手の熱」が「胸骨の上のみに移」っていた、という気づきが、亡くなってしまった人の身体の冷たさを際立たせている。
 さて、この二冊の歌集から考えたいのは、「職業詠」を私たち読者がどう「読む」か、である。「職業詠」はステレオタイプに陥りやすい。それは「詠む」時に限らない。殊に「医師」のように古くから権威と目されてきた職業に携わっている作者による「職業詠」であればなおさらだろう。読む前から無意識に「医療現場で働く過酷さ」や「患者を救うことができなかった悔しさ」といった、テレビドラマや漫画のように分かりやすい内容を期待してしまう、ということはないだろうか。一首に凝らされた、優れた修辞や美しい韻律の工夫を、的確に言語化することができているだろうか。「職業詠」が多様化し続けている現代だからこそ、安直な思い込みを廃して一首一首の歌に丁寧に向き合いたいと思う。これは自戒である。

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