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 芥川龍之介が幼いころの思い出を綴った「追憶」に、小学校二、三年生のころ、先生に「かわいと思うもの」「美しいと思うもの」を書け、と言われて「象」と「雲」を答えた、というエピソードがある。「それは僕には真実だった」が、先生は気に入らなかった、という。「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」と。
 「先生」という権威が、子どもにとっての「真実」を否定し、「かわい」「美しい」と感じる素直なこころを規定して狭めてしまう。こうした「権威による価値観の押しつけ」は残念ながら現代の教育現場にも日常的にあるし、私たちが歌について語り合う際にも、もちろんある。角川「短歌」十月号の特集「自然詠の冒険」に山田航が寄稿した「自然詠の政治性について」を読んで、私はこの芥川のエピソードを思い出した。
 〈自然詠はある種の政治思想である。なぜなら「どんな自然を美しいとみなすか」という価値判断は、高度に政治性をはらむものだからだ。しかし自然詠が詠まれるときに、その政治性を自覚している歌人はおそらくほとんどいまい。〉山田は石川信雄と葛原妙子の「自然詠」、そして日本文学者ハルオ・シラネの論を引きながら、「自然詠」の陥穽を鋭く指摘している。
 石川信雄の「超現實の入口に立つと峠に見てその火口原(カルデラ)におり行くこころ」や葛原妙子の「夢魔としもあらはれいでし地平あり地平をおほふ摩周火山灰」が詠まれた背景に、北海道という土地に対するオリエンタリズムや「太平洋戦争によって傷ついた日本の自然の代用品を見出す視点」があった、という山田の指摘に、私も首肯する。さらに言えばこれらの歌は、本来の作歌の意図を逸れて北海道を知らない読者にもわかりやすい「自然」を抽出したものとなってしまっており、現代において観光業者が集客するためのパンフレットや土産物の絵はがきと地続きではないか、とも思う。両者とも作品を完成させる過程で、自らが表現したい「北海道」のイメージと異なるもの、わかりにくいものは意識的・無意識的に排除したはずだ。そう、「どこが美しい?」と。歌詠みであれば誰でも身に覚えがあるだろう。
 では、何らかの「政治思想」や価値観の押しつけを伴わない「自然詠」は難しいのだろうか?そんなことはあるまい。
 鳳(あげは)蝶(てふ)そこからうまれてくるやうな西日に遇ひぬ大地震にも
 合掌が空気をつつみこむやうに湿気がひとのかたちをつくる
 渡辺松男歌集『あぢさゐだつたらあぢさゐの中』より引いた。「西日」も「大地震」もひとを包み込む「湿気」も、そしてこれらを詠む歌人もまた、大いなる自然の一部である。

※ 夢 平 摩周 灰 それぞれ旧字
※  ( )内は前の語句のルビ