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「短歌研究」二〇二三年七月号に掲載された短歌時評のなかで𠮷田恭大は、「『短歌研究』四月号『短歌の場でのハラスメントについて考える』について考える」と書き、バックラッシュについて論じている。𠮷田は角川「短歌年鑑」二〇二一年十二月号に掲載された栗木京子の座談会での発言「町の世話好きおばさんみたいなことが一切言えなくなった怖さも感じています」や、『婦人公論』のウェブサイトに掲載された馬場あき子のインタビューでの発言「最近は、『人を傷つけない』風潮が歌の世界にも流入してきて、批評がしにくいですね。(略)今の世の中は人間関係に信頼性が薄いから、怒れないのね。もう少し信頼が厚ければ徹底的に言えるけれど、そこまで達していない」をバッククラッシュ的な意見として挙げ、馬場の意見には、「歌の批評が、先輩―後輩のような支配的で強固な人間関係の上に成立するもの、という前提がある」、栗木の発言には「コミュニティの中で『町の世話好きおばさん』が機能する社会、というのは、年長者からの善意はなるべく受け取るべきである、という前提がある」とし、「かつての前提が今日機能しないことへの恐れがバックラッシュとして機能している」と述べている。
確かに『世話好きおばさん』のような、人の了解を得ずにプライベートな領域に入り込み、自分の善意を押し付ける行動や、強固な上下関係のなかで行われる歌の批評において、過剰と思われる言動がハラスメントとなるのは相手の尊厳を踏みにじる行為であるためであり、現代の人間関係の信頼性が薄いからでは決してない。ただ、私たちが上の世代の発言について考えるとき、発言者もまた何者でもない時期があったことを踏まえなければならないだろう。当たり前のようだが、私は国語の授業で栗木の歌を教わり、持っていた国語便覧には馬場が紹介されていた。二人を知ったときはすでに有名な歌人であったことから、私たちは彼女たちが最初から権威をもった人間の発言として、論じてしまってはいないだろうか。
恐らく栗木は若いころ、『町の世話好きおばさん』によって助けられたことがあったのだ。馬場もまた、先輩から歌について厳しく言われたことが、自分の力になった部分があったに違いない。彼女たちの発言は、自分がしてもらって良かったと思っている行為が、現代ではハラスメントとなってしまうことに対する悲しさから出たものではないだろうか。そのように考えると、これらの言葉はバックラッシュとは別の部分から出てきていると言えるだろう。𠮷田が二人の発言に返した「前提」は、彼女たちの経験に対する、現代からの醒めた裁断のように思うのである。
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