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「バズる」という言葉がある。調べてみたら、既に「大辞泉」にあった。「俗に、ウェブ上で、ある特定の事柄について話題にする。特に、SNSを通じて多人数がうわさをしたり、意見や感想を述べ合ったりして、一挙に話題が広まることを指す」とある。所謂「短歌ブーム」も、まさにインターネット上で短歌が「バズった」のだった。
いいこと、なのだろう。今この瞬間も、SNSにログインして「#(ハッシュタグ)短歌」で検索をかければ、たくさんの人が自分の好きな歌、自分がつくった歌を投稿しているのを見ることができる。新しい歌集や同人誌の刊行情報も流れてくる。これらをきっかけにそれまで知らなかった歌に出会うことができるし、気軽に感想を交換することができる。歌に出会い、歌をつくり始めるハードルは、SNSによって格段に低くなった。
でも、と私はいつものようにiPhoneの画面をスクロールしながら、考える。ハードルが低くなったことで、むしろ難しくなったこともあるのではないか。そう思ったのは、画面上を一首一首の歌が、あまりにもあっという間に流れては消えてゆくよなあ、と思ったからだ。優れた歌人たちの全歌集をゆっくり繙いてゆく時間の後はなおさら、タイムラインの流れの速さが恐ろしくなる。
散りしける花を踏ませてたましいの一隅(すみ)ほのじろく領さるる 死は
『雁の書』
秋の歯をあてれば雫滂沱たり泪たり 梨、亡き人と食(は)む
同
艱難はよきしろがねの露となりかんなんをしらぬわれにしたたる
『なるはた』
六尺の方舟かなしりんだうの一輪さして秋を流さる
『一文一步夕星』
五月に刊行された『佐竹彌生全歌集』から引いた。第一歌集の『雁の書』から病床にあった『なるはた』、最晩年の作品が収められた『一文一步夕星』まで、「死」や「亡き人」、そして水が「したたる」イメージが、通奏低音のように流れ続けている。
SNSの普及で難しくなったのは、このように一人の歌人の世界を見渡せるような大きな「読み」である。ここに引いたそれぞれの歌がタイムライン上に流れてくれば、きっと私は「いいね」を押し、リポストもする。しかし、佐竹彌生という歌人が追い求めたテーマや美意識にまで、思いを馳せることはできるだろうか。あとからあとから流れてくるたくさんの歌に、すぐに気持ちが逸れてしまうのではないか。それは「読み」ではなく「消費」である。
優れた歌人たちがつくり上げてきた世界は、忙しないSNSとは対極をなす深さと豊かさをもつものだ。だからこそ読み継がれるのだ。「バズる」からではなく。
※ ( )内は前の語句のルビ
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