告知板
ホーム
概要&入会案内
今月の内容
さくやこのはな
かりん作品抄
時評
ライブラリー
リンク
会員ひろば
かりんネット歌会
お問い合わせ
 「短歌の歴史はすなわち口語化の歴史でもある」と、川本千栄は述べる(『キマイラ文語』)。川本は、短歌において「文語・口語という語は多義的であいまい」であるとして、「現代文語」は口語の影響を受けて変容した「キマイラ文語」であると考える。この視点は非常に納得できる。
 『キマイラ文語』を通読した上で、指摘したい点が一つある。それは、本書収録の「ニューウェーブ世代の検証」が書かれたゼロ年代初頭に、歌壇とは離れた場所で独自の短歌論を展開した歌人、枡野浩一の存在だ。枡野の足跡は全短歌集の刊行、およびそれを受けての「短歌研究」の特集(二〇二二年十一月号)によって今まさに振り返られようとしているが、歌壇全体を通してみると、不自然に無視されている印象はぬぐえない。本人のキャラクター性も相まってだとは思うが、文語・口語については枡野がより先鋭的な見解をゼロ年代初頭の段階で残していることは、もっと顧みられてもいいはずだ。
 『かんたん短歌の作り方』で、枡野は文語(おそらくは川本のいう「現代文語」)を使う投稿者に対して、「昔風の言葉づかいにすると、もうそれだけで短歌らしく見えてしまう。そんなのは手ぬきなんじゃないか?(中略)しらふで口にできるような言葉だけをつかって、今の気持ちを表現しようと試行錯誤するのです」と指摘する。つまり、川本が「文語・口語」の対立軸を否定しつつ、「現代文語」は短歌の特質として受け入れているのに対して、枡野はそれを歌に取り入れること自体の否定に回る。もちろん、初心者へのアドバイスをデフォルメして書かれた文章であるという留保はあるだろう。しかし、枡野の指摘によって、それ以降の短歌には「しらふで口にできるような言葉」を重要視する傾向が生まれたとも言えるのではないか。
 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
                     枡野浩一
 牛乳を電子レンジであたためてこれからもつきあってください
                     土岐友浩
 夕暮れの難民キャンプを抜け出した少年と見る光射す海
                     田中翠香
 枡野のいう「しらふ」の文体は、土岐によって話し言葉をより自然に溶け込ませた文体へと変容し、田中はそれを日常ではない、あるドラマティックな場面を描くのに活用した。文体という広い目線で見れば、枡野の主張は現代短歌の最前線にも生きている。
 「短歌研究」の枡野特集の執筆陣を見て、私は素直に驚いた。全員ではないだろうが、ここにはおそらく直接的に枡野の影響を受けた歌人が並ぶ。だから、枡野は極めて限定的な存在だ、という印象を与えたいのではと考えるのは、穿った見方にすぎるだろうか。