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 写真史の本を読んでいて、意外なところで思わぬ言葉に出会うものだと思った。一九五〇年前期に土門拳が打ち出したリアリズム宣言のことだ。ここで土門は「有閑的娯楽的写真たるサロン・ピクチュア」を批判し、「カメラとモチーフの直結」による「絶対非演出の絶対スナップを基本的方法とするリアリズム写真」を唱えたという。土門は「日本に近代写真を確立する」と意気込んだが、その訴えは傷痍軍人や戦災孤児、街娼といった戦後の悲惨な社会的現実を単にモチーフにするものと受け止められ、行き詰まりを見せる。しかしその後、「テーマ性」と「典型」に展開を見出した土門のリアリズムは、被爆者に取材した一九五八年の『ヒロシマ』や、失業と貧窮にあえぐ炭鉱町の人々を写した一九六〇年の『筑豊のこどもたち』に結実したとされる。
 ここから想起されるものの一つは、一九五一年の大野誠夫の歌集『薔薇祭』に収められた戦後の風俗詠だ。
 幼きら並びて靴を磨きをり孤りの生きのすべなく勁(つよ)き
 兵たりしものさまよへる風の市(いち)白きマフラーをまきゐたり哀(かな)し
 大野の歌の虚実は定かではなく、時に鮮やかすぎる印象も受けるが、しかし、歌人の独自の視点から社会のリアリティが意識的に詠まれている点は、現代から見ても十分に認められるだろう。
 さて、現代短歌のリアリズムへ目を向けると、永井祐は「短歌研究」七月号の山田航との対談の中で、仲田有里の発言を引き、歌がリアルを志向する理由の一つを「浮力、浮遊感」を持つ詩の言葉と「現実の重たさ、重力」との間の違和に求めている。また、「現代短歌」九月号では川本千栄が評論「短歌口語化の伏流水」の中で河野裕子らの発言等を引き、「完結性のある格調高い歌」に「嘘くささ」を感じ「等身大の日常を、等身大の言葉で詠う」歌人たちのリアリズムに言及している。
 これらに示された現代短歌のリアルへの追求は、理想化・定式化された世界への忌避と、地に足のついた現実(及びその生活)への意志を明確に持つものの、土門や大野のリアリズムとは性質が異なるものであることが分かる。
 例えば、現代短歌のリアリティの特質は、自己を投影したリアルな社会や情景を描くことよりも、むしろ感覚や情景を詠んだ歌が、リアルな自己――それも作者と読者もろともの自己を補完し、保証することを重視しているところに見出すこともできる。
 ただ、リアルの本質は、予測不能で多義的な他者の存在にも求められよう。そして、此岸のリアルのために語り落とされる彼岸のリアルこそ、文芸によってすくい上げられるはずのものでなかったか。

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