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 『高等学校の新学習指導要領に基づくカリキュラムは、二十二年度新入生から段階的に運用されている。例として、国語科では「現代の国語」「言語文化」が必修となり、以降は「文学国語」「論理国語」「国語表現」「古典探究」から二科目を選択する形となる。
 この改訂には早くから危惧の声が上がっていた。例えば教育学者の紅野謙介は、必修科目「現代の国語」を「これまでの高校の「国語」を根本から破壊し(中略)、学級秩序は崩壊し、進学の実績も目に見えて低下する」(『国語教育 混迷する改革』)と断罪する。
 一教員であるわたしには、今回の改訂が産業社会の要請をすべて教育、とりわけ〈言語〉を直接扱う教科に押しつけているように映る。コミュニケーション力や論理力、情報処理能力など、高々十五歳に求めるには酷すぎる様々な「メリット=力」が、次々と教育現場に持ち込まれ、子供の世界を圧迫する。「ハイパーメリトクラシー」と呼ばれる、能力基盤社会の要求である。
 実際、わたしの専門は英語であり、国語の改訂は直接的には関係がない。だが、わずかながらに文学という営みにも携わる者としては、手放しに受け取るわけにはいかない。進学校では「論理国語」と「古典探究」が、進路多様校では就職試験や小論文の対策として「国語表現」が採用されることは想像がつく。いずれにせよ「文学国語」の選択は少なくなり、文字通りの「文学離れ」を加速させることは改めて指摘するまでもない。
 だが、本当の問題は、「文学国語」が選択されないことではなく、「文学」「論理」「表現」に分断された構造それ自体にある。頓挫した英語の〈四技能〉もそうだったが、我々が用いる〈言語〉は極めて複雑な体系であり、一つの要素が独立して存在することはない。「論理国語」で「論理」が身につくという議論が詭弁であり、そのように体系から切り離された〈言語〉は空虚な教育の産物でしかない。
 ふうせんが九つとんでいきましたひきざんはいつもちょっとかなしい
                          山添聡介
 七歳の少年の朝日歌壇入選作として、話題となった作品だ。(歌集『じゃんけんできめる』)。ここには分断された言語ではなく、誰にでも芽生える素直な言葉の光がある。このような言葉と出会う喜びは、新カリキュラムの子供たちには与えられない。現代歌人協会・日本歌人クラブは、この改訂を「短歌を含む現代文学を軽視」しており、「広く日本語を使い、日本文化を土壌とする社会全体の問題」であるという合同の声明を出している。(二〇一九年五月十日)
 この歌人たちによる、言語を包括的に扱う視点は重要だ。そこに立ち返らなければ、言語教育は本来の意義を取り戻すことはできないのだ。