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さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり |
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『桜花伝承』昭和五十二年刊 |
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これは「春の水深」と題した二十九首の冒頭におかれた歌で昭和五十年六月の「短歌」に発表した。作ったのは四月でこの頃、かなり桜に執して歌を作っている。理由があった。ほんの少し前、三月二十九日の昼のことだ。読売新聞におられた島田修二さんからの電話で、村上一郎さんが自刃されたというので、その頃親しかった冨士田元彦さんに連絡して吉祥寺の村上家へ急いだ。生前、村上さんは能をご覧になり、殊に若い日に観た喜多六平太(十四世)の能を観て感動したといい、六平太が昭和四十六年一月に亡くなった時は「げに花は落つるものなる理(ことはり)をまひる静かに知るはかなしも」という悼歌をいただいて、喜多節世師(十五世宗家次男)にお届けしたりした。世阿弥の芸論の「花」と現世の桜は同一ではないが、重なるイメージがある。「花」について村上さんと話題にしたことは一、二度あるが、『鬼の研究』を出した昭和四十六年、村上さんは『撃攘』という歌集を出され、その巻末の一首が「六平太翁みまかりたまふを悼みて」と題されたこの歌であった。
私の桜の歌については「身に水流の音ひびくなり」が一般的によく伝わらず、「川の辺りにあっての歌」「水流のようにひびく心音」「身を流れる水流のような血潮の音」などと解釈された。私としては「川の辺り」以外の二つであればどちらでもありがたい。一連の後半は村上一郎への挽歌として「無名鬼」の追悼号に出した記憶がある。
中年以後に体験する人の死は生者の心を少し老いさせるような気がする。じっさいにも、この頃から私は沢山の死者との別れを味わうことになるが、そうした予感があったわけではないにしても、これから来る自身の老年や死について、考える時間をもつようになった。少し早すぎる老の意識といわれたりしたが、じつに同居している父や継母、姑のそれぞれの老いを日常的に目にしていたからである。
一心に押し来る力あるがごとくさくらは散りて太る木木の夜
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