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「短歌」八月号の特集は「短歌の空想の力――フィクションとファンタジー」である。総論で斉藤斎藤は、ファンタジーを「この世には存在し得ず、わたしたちの心のなかにだけ存在し得る、『真実』の物語」と定義している。この定義はまずまず正しいと思うが、「真実」は多分、世代や個人によって違うだろう。
結社誌「太郎と花子」第十六号に、山田航が「本邦初の『ライトノベル』的歌集」という評論を寄稿しており、ライトノベル(以下ラノベ)という小説形式に反映された若者の「ファンタジー」観に興味を抱いた。評されているのは佐藤聖『大剣を手に』である。
全身に少女一人と少年を廻(めぐ)らせている 大剣を手に
敵として申し分なし 私たち二人を厚遇せぬ世界など
山田は「大剣」といったファンタジックなモチーフは、例えばトールキンの『指輪物語』に代表される典型的なファンタジーとは印象が異なるという。それは、あくまでも日常の「裂け目の中に非日常としてファンタジー的モチーフが導入され」たものであり、そうした日常と地続きのファンタジックな設定は、ラノベによく用いられる手法らしい。
山田の引用している波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本』を読み、ラノベの登場人物には「入間(いるま)人間(ひとま)」や「裕時(ゆうじ)悠示(ゆうじ)」といった名前が多いと知った。姓と名の微妙なずれは、恐らく日常とわずかしか違わない異世界との狭間で揺れる存在を表しており、「斉藤斎藤」というペンネームは、ラノベの読者にはなじみ深いものなのだと思い至った。
一方、近年のファンタジーの変化について、井辻朱美も指摘する。井辻は数々の英米ファンタジーを翻訳し、自らもファンタジー作家として活躍してきたが、七月に刊行された第六歌集『クラウド』には、「『詩』の火力」と題した、ファンタジーの本質を追究した文章が収められている。
井辻は、情報社会の広がりと共に、ゲームをはじめとするあらゆるジャンルにおいてファンタジーが織り込まれ、「現実と想像が一気にごたまぜになったあげくに生まれたのは、『何でもあり』にリニューアルされただけの、新しい『現実』でした」と慨嘆する。しかし、そんな状況で東日本大震災が起き、ひとつの「大きな物語」を人々の意識の中から掘り起こした。人類が歴史上の厄災を通じて体験してきたさまざまな感情を物語の枠の中に配置し、それらを総括する〈喪の作業〉の中に、井辻は「ファンタジーの本源の力」を見る。枠の外に立ち、制度や現実感、時代性を揺さぶり、問い返すことのできる力、それは「散文の論理ではなく、詩の理不尽な結合力と飛躍力」だと彼女は言う。「真のファンタジー=詩の力」を模索したいと思わされた。
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