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 「塔」の創刊六十周年を記念したシンポジウムが、八月下旬に京都市内で開かれた。
 「言葉の危機的状況をめぐって」と題した鼎談では、鷲田清一、内田樹、永田和宏が登壇し、言葉の生成される現場や、言葉の本質について話し合った。哲学、思想の分野で活躍する二人がパネリストだということもあり、会場には八百人が詰めかけた。
 まず鷲田は、言葉には宛先があり、誰に向けられて発せられるものかが大切だということ、また、言葉には意味(text)と肌理(texture)があり、語った内容とは関係なく、肌理の部分で人を慰め、力づけることもあると話した。そして、凝縮された短詩型は「意味が言葉の容量を超える」ということで言うならば、吃音と似ているかもしれない、と指摘。
 武道家としても知られる内田は、合気道の指導をする際、身体の部分の動きを詳述するよりも、例えば「落ちてくる雨粒を感じようとてのひらを差し出す動作」といった、ややポエティックな表現の方がうまく伝わることを紹介。「無いものを提示したり想定したりすることで、現実的な縛りから自由になる。だから、人間は詩歌や物語、ファンタジーを考え出したのではないか。語彙や意味に則っているだけでは、言葉によって世界や人間を汲み尽くせない」という発言は特に興味深かった。
 二人の発言を受けて永田は、「あらかじめ分かっている輪郭のはっきりしたものは、歌にする必要がない。言い淀み、手探りで表すのが歌というものではないか。メッセージを伝えようとして揺れている言語表現が歌の本質かもしれない」と発言。
 短歌について、内田は「歌のいい悪いは素人にもわかる。複数の次元にわたっていること、個人の実感が絡められているスケール感、風通しのよさが大事。そして、いい歌には皮膚感覚、匂いや音、手ざわりがあり、そこに作者の力の差が出る印象だ」と話した。
 鷲田が「あらかたを流されながらそれでもなほ人ら喪服を調へんとす(梶原さい子)」を挙げて、「起こっていることと自分の思いとのずれ、ちぐはぐ感がよい」と話すと、永田が「下手な歌詠みは、思いにぴったりする景やものを持ってこようとするが、ちぐはぐ感に一番リアリティやインパクトがある」と同意するなど、作歌についての具体的な話もあり、充実した内容だった。
 六十年という節目に、「塔」は主宰が交代すると発表した。永田和宏に代わり、来年一月から吉川宏志が就任する。創刊五十周年記念号で永田は既に「代表をあと十年ほどで次の世代に譲りたい」と記していた。旧来の結社のあり方にとらわれない自由な気風は、記念シンポジウムや誌面にもよく表れている。新たな船出を大いに祝したい。