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 「作中の『父親の死』はフィクションだったんです」――短歌研究新人賞の選評で加藤治郎がそう言った瞬間、「えっ」と身がこわばった。九月中旬、都内で開かれた短歌研究三賞の授賞式での出来事である。
新人賞を受賞した石井僚一の「父親のような雨に打たれて」は、作中主体の「父」の病床を描く歌で始まり、やがてその死を迎えるという流れで構成された連作だ。
 遺影にて初めて父と目があったような気がする ここで初めて
 傘を盗まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて
 選考座談会では、「父親の死と葬儀をめぐる心の揺れがややハードボイルドなタッチで詠まれている。真摯だが過剰にべたつかない心情表現に好感を持った(栗木京子)」「挽歌だけれども、歌われるのは父親との関係のほかに、今を生きている何かやるせない感じが折々に噴出するような強さで出てくる(米川千嘉子)」などと評された。
 受賞が決まった後、北海道新聞には石井について「父親は存命中だが『死のまぎわの祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた』という」と伝える記事が掲載された。加藤は、多くの人が「父の死が事実でないこと」を知らない状況について、説明責任を感じ、「短歌研究」十月号に経過報告と問題提起を合わせた「虚構の議論へ」を寄稿したのだという。
 加藤は、「まず第一に思ったのは、前衛短歌の方法の復活であろうということだった」と記す。選評のスピーチでは「現代の前衛短歌ののろしを上げたのでは」と石井を祝福したが、この文章では「受賞作は零からの虚構ではない。普遍的な父親像として昇華したものでもない。(中略)前衛短歌において虚構の純度は高かった」とやや手厳しい。
 しかし、普遍的な「父」のイメージを詠うにしても、それを衝迫力のあるものにするには、ある程度、具体が必要になる。具体を持ってくれば、「嘘」が生じてしまうが、どんなものを詠ってもそこに何らかの脚色や誇張が入り込むことは、実作者なら誰もが経験しているだろう。
 私自身、「父親存命」という事実に一瞬失望したのは確かだ。人間には「本当のこと」に感動したいという願望がある。しかし、虚構によって感動させるのが文学の力ではないか。今回の新人賞受賞作は、作品として並み居る選考委員たちを魅了したのである。
 老父の日常を描いた歌を含む内藤明の「ブリッジ」(短歌研究賞)、変質してきた私性の概念や、震災詠における作中主体を論じた寺井龍哉の「うたと震災と私」(現代短歌評論賞)と、三作が互いに関係し合うような偶然も興味深い。「私性と虚構」についての問題提起だと受けとめたい。