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二〇一四年を振り返る角川「短歌年鑑」で、佐伯裕子が「短歌研究」同年二月号の川野里子の時評「『時間』について」を取り上げており、たいへん共感して読んだ。私にとっても年間を通して最も示唆に富む文章だったからだ。
川野の時評は、二〇一三年の角川「短歌年鑑」の座談会「秀歌とは何か」を評したものである。岡井隆、米川千嘉子が秀歌の条件に「時間軸を含み持つ要素」を挙げたのに対し、永井祐は「面白い」「すごい」「見たことない」を期待する。永井の条件はすべて「驚き」という瞬間のものであり、そのために「時間」に重きを置く岡井、米川と重心が違っているのだと、川野は鮮やかに切り取ってみせた。
この「瞬間」の感覚について優れた考察をしたのが、斉藤斎藤の時評「口語短歌の『た』について」である(「短歌人」二〇一四年九月号)。斉藤は、過去や完了をあらわす文語の助動詞は、「話者の立ち位置が発話時に固定されているからこそ、複数のニュアンスの使い分けが必要となる」のだと見る。そして、「時間軸を移動しながら叙述する場合、完了形で描かれていた出来事は進行形で描かれることになる」、つまり永井祐のような歌人にとっては、過去にも完了にも用いることのできる「た」や、継続を表す「ている」があれば事足りるというのだ。
斉藤の指摘に唸ったのは、先日別の結社の若い友人に依頼されて読んだ新人賞応募作品に、「~ている」という表現があまりにも多かったのを思い出したからだ。「文体が単調になるので多用しない方がよい」などとアドバイスしたが、「時間軸の移動」と思えば、この表現は作者にとってごく自然なものなのだろう。
斉藤は「いまの若者は『今』にしか興味がない、というようなことも言われるが、これも逆ではないかと思う。口語短歌に現在形が目立つのは『今』を離れて話者が動くからである。さまざまな時制表現を駆使して、話者にとっての『今』に強くこだわるのは、むしろ文語のほうではないか」と結んでいる。
文語の時制表現を用いる人が、「今」という立脚点を持っていることは分かる。しかし、「今」を離れてしまう話者の感覚が何に由来するのかはまだ分からない。「時間軸の移動」なんてタイムトラベラーではあるまいし、ふつうに生きていれば、歴史の流れの中に自分も存在すること、過去と未来の狭間にある「今」を実感するのは当然ではないだろうか。「今」がそれほど希薄で、拠って立つところが見出せないのか、若者の歴史認識のなさが現在の政治状況とも結びついているのか――。考えれば考えるほど問題は短歌だけではないのだと暗い気持ちになる。「時間」を見据え、多くの歌をじっくり読むしかない。
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