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昨年は「短歌が短歌であることの本質に迫るような議論が多かった」といわれる(塔十二月号短歌時評大森静佳)。短歌研究新人賞の虚構問題は、年が明けた今でもまだ底流として生々しく流れているようだ。詠み手としては作歌という行為になにか過剰な負荷をかけられている感じもする。まるで、やっとできるようになった車の運転について、その仕組みが全部完璧に説明できなくては運転してはいけないといわれているようだ。作歌はもっとシンプルで素朴な表現のよろこびを味わうべき行為ではないのか。しかしそうは言っても、現代という時代にそんな素朴さから生まれるものの限界を感じていることも事実だ。だから考えざるをえない。「短歌が短歌であることの本質」とは一体何だろう。短歌に韻律は欠かせないが、ここではそれとは別の面からその表現の求めるところを考えると、それは内容が「リアル」であることだと思う。
前稿では「現代短歌の『事実』とは、読者から見た『事実らしさ』である」(歌壇八月号斉藤斎藤)「大切なのは、事実として経験したかではなく、心の経験が切実な「事実らしさ」として歌に反映されているかどうかだ。」(短歌時評)など、「事実」に関する示唆にとんだ文言が述べられている。
これは先の虚構問題から考察され、虚構に対しての事実という単純な二項対立ならぬ「事実らしさ」に焦点が当てられているということだろう。「らしさ」というところに一抹の危うさを感じてしまうのだが、私はこれは「抒情」に言い換えられると思う。
大森静佳のいう「事実のなかでのみ生きているのではない意識の世界における現実の私」と「その心の経験」という把握は、現代のメタ自我の視点を思わせ興味深いが、更にいえば、その中の事実のみに限ってみても、ひとは何らかの事実を経験するとそこで何かを味わい、感じる。その感じこそが「リアル」であり、表現を生きたものにする抒情であろう。そして真の抒情とは偽ることのできないものだ。表現において、事実は表現のためにトリミングされる素材といえるが、そこにおける経験とそこに生じる抒情は、表現のいのちそのものである。短歌研究三月号の「プロムナード現代短歌二○一四」第二部再録「短歌の現在はどこにあるのか」には現代短歌の重要な要素がいくつも語られているが、ここにも虚構について見過ごせない言葉があった。「リアリズムで作っている作者にもある現実はうたわないという形の虚構もある。歌人は複雑な虚構とのつき合い方をしている…短歌の生命線はいかに「私」を保持していくか…」(加藤治郎)短歌が短歌である本質とは「事実も含めて『私』という血の通った虚構」といえるのかもしれない。
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