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 短歌が短歌である本質について前回「『私』という血の通った虚構」と述べたがこれについてもう少し補完したい。これは加藤治郎の「ある現実はうたわないという虚構」という言葉から導き出された思惟である。表現者は表現したいものを表現する。純粋に表現を手渡すことだけを考える。そうして生まれた一首はすでにそれは現実ではなく現実から抽出され表現された作品である。そのように考えると、すべての歌は虚構であろう。
 しかしそこにはやはり「私」がいるはずである。というよりいるべきである。
 さて、「現代短歌新聞」二月号の大松達知の牧水賞受賞インタビューに、この「私」に即した直球のような文言をみた。「歌とは言葉のリズムを借りて自分の体の中にあるものを引き出す装置だと認識している…最初から素材があって歌おうとするのではなく、何もないところから言葉を引き出すというか。…物より言葉に反応する…コップがあると、コップそのものではなく、「コップ」という言葉に反応する、みたいな。」正直言って私は後半の「物より言葉に反応する」というところは未だ実感できていない。でも前半の「歌は自分の身体の中にあるものを引き出す装置」という言葉には眼からウロコが落ちたような気がした。「自分の身体の中にあるもの」これは抒情ではないだろうか?だとすれば事実のなかで人に生じる抒情は歌という言葉のリズムに引き出され、表現としての形を与えられるのだ。「短歌研究」二月号作品季評にてさらにこの問題は研ぎ澄まされる。
 「山本健吉のいう、意味が全部洗い流されてしまって、リズムと調べだけがある言語空間、それが短歌の理想型で、人生の時間が流れるそのままの時間の流れのなかでうたおうとしている高野作品はこうした意味での定型詩の究極を目ざしている…」(佐佐木幸綱)
  玄水という水ありて冷やで良くあたためて良くたましひに良し
                         高野公彦「玄水」
 何度もゆっくりと唱えてみると、歌そのものがたましいに効くような気がしてくる。そして「虚構」にまつわる我執が消えてゆくような気がする。しかし一方、この同じ季評の欄で、虚構問題の源である石井僚一の「父親のような雨に打たれて」三十首も論じられているのだ。
  傘を盜まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて
                         石井僚一
 「父親のような雨」に作者を丸ごと包み込む「たましい」のような存在をふと思う。ここにさきほどの「短歌の理想型はリズムと調べだけ…」という限りなくシンプルで純粋な、別次元ともいうべき言葉を敢えて置いてみる。虚構と切り離せぬ現代の若手作品たちは、この真理にどのように応えてゆくだろうか?