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 今年の現代歌人協会賞は服部真里子の『行け広野へと』に贈られた。日本歌人クラブ新人賞とのダブル受賞である。
  駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちで傍へ
  残照よ 体軀みじかき水鳥はぶん投げられたように飛びゆく
 授賞式では「新しく溌剌としたユーモア」「この作者が世界をどうみているのかよくわかる比喩表現」「すこやかな積極性」「美意識のつよさ」など多くの賛辞が寄せられた。
 さて一方、小池光に「わからない」と評された服部の歌については、総合誌や新聞でさまざまな論評が飛び交い、歌壇に大きな波紋をよんでいる。
  水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
 これはどういうことなのだろう?さきの二首には抒情があり、まさに「この作者が世界をどうみているのかよくわかる」(栗木京子)のだ。それに対して問題の一首は、抒情よりもより内向的で鋭敏な感覚の歌と思われる。そんな趣向のためか、上の句が省略されすぎて読み手には不親切な歌だと私は思った。しかし短歌は三十一文字、時には大胆な省略も必要となる。そこで表現のせめぎあいが起こる。
 この一首は解釈に多義性を生じるが、表現としてはシャープだ。しかし読み手にそれが「わからない」といわれたら、問題はそこで終わる、と思っていた。表現においては、読み手の立場の方がつよいからだ。「わからない」といわれた時、その作者にできるのは「わかる人にだけわかればいい」と開き直るか、「ではわからせるためにはどうしたらいいか」と突き詰めて考えるか、どちらかだ。自身の作風を守るためには開き直りも必要かもしれない。しかし私はかりんで、馬場主宰から「例えば歌など読まないような巷の人にも偉い評論家の先生にも、どちらにもわかってもらえるような歌が本当に良い歌である」と学んだ。作品を不特定多数の読み手に伝えるにはどう表現すべきなのか、それを突き詰め工夫することが「作歌の本質」だと考える。そしてそのためには作者自身がその一首に何を籠めたいのか、自分で決めているべきだ。もちろん、服部の主張する言葉は共有できないという個人の認識の違いは深い指摘であり、それを含めて、読みの多義性は作品を膨らませ、時には新鮮な風をよぶものだから、それは否定できない。ただ作者本人がそのアナーキズム(大辻隆弘)に乗じて、自身の表現をアナーキーにするべきではない、と自戒を込めて思う。
 目指すべき表現は、読み手が作者の意図を捉えようとするまでもなく、どんな読み手にもそれを作品として伝えてくれるものだと信じている。