告知板
ホーム
概要&入会案内
今月の内容
さくやこのはな
かりん作品抄
時評
ライブラリー
リンク
お問い合わせ
 八月のかりんの勉強会で、ごく内輪ながら、朗読会を初めて企画した。幸いベテランから新人まで十数名の朗読者を得て、会は無事に開催できた。歌がそれぞれの作者から生まれた「なまもの」だと実感し、個人的には言葉に疲れた頭へのカンフル注射になった。私自身は歌を繰り返しや回文的な読み方でデフォルメし、表現したい部分をより劇的に炙り出すような朗読を試みたが、そうすることで、その一首を自分がどう表現したかったのか再確認できたと思う。しかしこれは反面、受け手の想像力や解釈の自由を抑制してしまう押しつけがましいやり方には違いない。
 一方日ごろ言葉のみで表現している短歌は、常に解釈を読み手にゆだね、何がどこまで伝わるのか、提示してみなければわからない。その賭けのような危うさを抱えた三十一文字が短歌なのだと、媒体の違いによる表現の本質にあらためて思いを馳せた。また同時に、声という身体的な表現で自分を一端解放した後には、短歌という車の両輪の片方である「論」の分野が濃密な影のようにそこに在ることも意識せざるをえなかった。
 そこで心を鎮めて、論の同人誌「Trⅰ 短歌史プロジェクト」を再読する。この春、歌林の会の大井学がツイッターによって募った他結社の仲間二人と「短歌史を書き継ぐための同人誌」として創刊したものだ。短歌史という分野は今までどちらかというと表現のための補完的な学びと捉えていた。また歴史は、すでに過去としてあるものを学ぶことで、この時間軸上に存在している現在の根拠とその来歴を知り、未来への展望へつなげるものである。それが彼らは自ら現在と地続きの直近の短歌史を書き継ぐのだという。そこには歴史となるにはまだ生々しい時間から、必要なものを自分たちで生み出そうとするアグレッシブな意志と巨視的な眼差しがある。それは作品を表現したいという衝動とは異質なものかもしれない。しかしページをめくると、大井をはじめ三人の書き手は、楽しみながら本当に書きたいことを書いているのだという熱さが伝わってきた。例えば、大井の一九六九年を起点とする論そのものもさることながら、村木道彦の評の引用や、河野裕子に対する山田あきの評の取り上げ方から大井の嗜好や立ち位置が思われる。花笠海月のサブカルチャー論には仙波龍英への愛が滲み、ライトヴァースの変遷をたどる濱松哲朗の論では、俵万智、林あまりと仙波が比較され「作品における思想性の希薄化」が明晰に指摘されるくだりに惹きつけられた。朗読や作歌と同様、短歌史という厳密な分野も自らを表現する場たりえるのだ、と納得した。
 壮大な熱い血の通った取り組みをもっと読んでみたい。