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今年の上半期もかりんでは多くの歌集が上梓されたが、今回はとくに五月から八月にかけて上梓された三冊、久山倫代歌集『星芒体』、土屋千鶴子歌集『月曜と花』、尾﨑朗子『タイガーリリー』に注目した。久山と土屋は第三歌集であり、尾﨑が第二歌集である。
わが心緩ませたくて退勤の夜の電車に食む紅茶飴
久山倫代
きれぎれに退院できさうといふ父に微笑むわれは夕暮れの貝
土屋千鶴子
四度目の転職をしてにこにこと感じのよいふうな人になりゆく
尾﨑朗子
それぞれ同年代の仕事をもち自立した大人の女性であり、仕事と老いた親を抱えて自身の困難な人生の局面を引き受ける姿勢が、歌人としての着実な歩みと重なってゆく。
それゆえ歌は決して甘いものではない。読み手としては時に辛さを感じたり、状況のあまりの厳しさにたじろいだりした。しかしこの三冊の読みどころは叙述された境涯の厳しさではなく「人生を引き受けて詠う」歌の生み出す抒情である。近年とくに若手の作品は、虚構問題にみられる通り、短歌と境涯がイコールとはいえない複雑な様相を帯びている。自我の在り方そのものも多様になっている。また時に境涯は切り離され、詩情や機知の純度がはかられる。そのような現代の歌壇の潮流を思えば、この三冊の歌のスタイルはかなりオーソドックスかもしれない。しかしだからこそその流れの中に年代的にもジェンダーの面からも一石を投じられる存在であろう。
短歌の本質を抒情において考える時、境涯詠のもつ重みに読み手は現実の辛さや厳しさという視点からよりもっと無心に向き合わねばならない。いうまでもなく人の境涯はみな違うので、それを文学的に評価できるものではない。しかし境涯詠には、その境遇に在らねば生まれない抒情や発見が必ずある。それはとても尊いものであり、それこそが読み手が短歌として味わうべきものだ。そして境涯を抒情の泉として捉えるなら、この三冊は現在の歌壇で取り上げられる機会の少ない貴重なカテゴリーを成している。それを認識しつつ個個の作者ならではの歌の魅力を味わいたい。
発疹はひとつとて同じものはなく皮膚とは深き森のごとしも
久山倫代
わが部屋に小さな小さなお仏壇ああ人生もままごとみたい
土屋千鶴子
それぞれの孤が触れぬやう芝生の上離れて見つめあふ冬つぐみ
尾﨑朗子
ここに引いた歌はさきに引いた歌よりも境涯の奥に居る作者の「核」により近いと感じた歌である。このような歌を歌集の中の多くの境涯に密着した歌と合わせて読む時、それぞれの作者像はよりきわやかに浮かび上がるだろう。
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