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 十一月二十九日、歌林の会の川野里子が発起人とパネルディスカッションの司会を務める葛原妙子没後三十年イベント「再発見・葛原妙子」を聴いた。
 第一部は高橋睦郎氏の講演で、実際に妙子と深い交流があった氏による数々のエピソードはインパクトの強い「葛原のものまね」も交えながら人間葛原妙子を生々しく再現し、今までの妙子の歌の硬質な印象が変わってしまいそうだった。そこでふと思ったのは、それではこの生々しい「妙子」を実感する以前の鑑賞は何だったのだろう?ということだった。
 もちろん歌人の生の気配を知ればその鑑賞はより深く的確になる。しかし鑑賞とは吉川宏志のいう自分の中で自分と対話する営為(角川短歌十一月)だとすれば、時には自分との対話が、事実によって制限される場合もあるかもしれない。自分の身にひきつけて読む「鑑賞」の難しさを思った。
 さて第二部のパネルディスカッションでは、塚本邦雄の社会性とは異なる葛原の歌の普遍性を、永井祐をはじめ現代の若手がそれぞれの視点に引寄せて読む面白さはみえたと思う。しかしピンポイントに絞った鑑賞からディスカッションは起こりにくかったようだ。
 個人的には、斉藤斎藤の「あみだくじの世界」に共感した。それは「そうであるかもしれない」可能性の認知だと私は理解した。この神の視点のような現実の多義性をふまえた描写こそを「幻視」と呼ぶのかもしれないし、若手の平岡直子のいういわゆる天使を見るような幻視ではない、現実そのものを凝視する葛原の眼力にはこの認知力が備わっているのかもしれない。
 あるいはその尋常ならぬ視野は水原紫苑のいう悪魔に遭ってしまった者の眼なのかもしれない。有名な〈他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水〉も水原の引いた〈夜半ふいにわれに向きたる汝がめがねいぎりすの古き修道院より〉もこの視野からこそ生まれた歌だと思った。
 また、佐藤佐太郎を絶賛した妙子だが、その写実は佐太郎とは全く違うたましいの写実であり、たましいの欠落は韻律の欠落によって表現されるという川野里子の指摘は重要だ。さらに穂村弘による葛原妙子の歌は比喩がすべてマイナス方向であるという指摘も葛原の根幹にかかわるものと感じた。それは美や崇高なものへの渇望がつよすぎるためだという。
 なぜ渇望するのか? それは満たされないからだ。葛原のマイナス方向の比喩はその韻律と同じように、本人の生の実感として湧いてきたもののように思われる。そのようにしか感受できない葛原の心は病的であっても普遍性があり、共感しうるものだ。病んで、むしろ本物となる(水原紫苑)。
 そんな妙子の歌にやはり魅了される。