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 角川短歌の歌壇時評(阿波野巧也)に短歌の〈驚異〉(ワンダー)について、穂村弘の入門書『短歌という爆弾』から穂村の理論が取り上げられている。私もかつてその本で目からうろこが落ちた思いがしたので、例えばこのような言葉をなつかしく読んだ。「〈驚異〉は〈驚異〉そのものとしてではなく〈共感〉へと向かうクビレとして短歌の中で機能する」
   砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね
                            俵 万智
 この「折れた翼」がいわゆる「歌のクビレ」だと折に触れて拳拳服膺してきたのだ。作歌のためにそこから得たものはとても大きい。
 一方、今回の阿波野の時評に述べられた〈驚異〉の分析も興味深い。
   骨なしのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日
                            岡野大嗣
   三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死
                            服部真里子
 俵の飛行機の歌は「忘れないでね」という呼びかけの「共感」へ読者を導くが、岡野の「混入事象」には〈驚異〉の自己目的化があり、鮮やかだが説明的で物足りないという。また服部の歌にはニ物衝突の〈驚異〉が指摘され、〈驚異〉自体が短歌の目的となってアイデア短歌に陥ってしまう危惧が述べられている。よくわかる。俵の歌の「忘れないでね」は歌のたまの緒なのだ。それは抒情であり、詠み手の生の気配である。一首の中でそういうものに触れると読み手の心の琴線は震え、そこに共感や感動が生じる。「理知的な認識では掬い取れない部分」(阿波野巧也)の大切さともそれは重なってくるものだと思う。
 しかし一方、前述の岡野と服部の歌の張りつめられた構築性は、そういう生の気配を自ずから拒んでいる感じがする。むしろこの場合、たまの緒はやわらかくゆらぐのではなく、焼かれた骨のように固く凝ってすでに歌の中にあるのではないか。
 服部は「自分を表現しようと思って、歌を作ったことは一度もない」(「飛ぶ教室」四四号)という。「歌は作ろうと思って作るし、絵の具を塗る時みたいに、いちばんいいバランスを考えて言葉を配置しています」少し驚かされるが抒情の問題を追及しなければ、ある意味至極まっとうな創作行為を述べた言葉でもある。自分を表現しようとは思わない=「われ」を立てたいとは思わない、と考えられる。演劇の脚本や演出の経験がある服部の「われ」は自分自身に直接兆すのではなく、ある世界観を遍在的に投影するような志向かもしれない。その先には遠く寺山修司や塚本邦雄の歌も置いてみたくなる。
 もはや素朴でない現代短歌にはさまざまな「生の気配」がある。それらを幅広く柔軟に受け取れる感性を保ちたい。