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うた新聞二月号に吉川宏志の「行為」と「歌を詠む」ことの関係、接点についての考えが明確に述べられている。
「短歌の言葉はとても身体的で、何らかの行動をすることで、言葉に厚みや深さが出てくる…また参加することで〈他者〉と出合うことになるわけで、〈他者〉に触れることで、自分が変化するところから、新しい表現も生まれてくる…」。正論として自然に頭が下がってしまう言葉だ。ただ一方でそれが短歌のすべてだと思うと息苦しく、アンビバレントな感覚に捉われる。
短歌往来四月号の今月の視点で、そんな感覚を揺り戻された。
「表現者は作品がすべてだ。…表現者にとって一番大切な要素は、想像力を駆使した創造力だ。一つの体験や見聞を幾十にも幾百にも展開できねばならない。…」(塚本靑史)。これも正論であり、吉川の態度論に対して、これは表現そのものへの提言だが、これらは視点が違うだけで相反するわけではないだろう。
角川短歌四月号では大辻隆弘が「修辞を駆使し象徴的なイメージを匂わせる」社会詠として吉川の歌を挙げている。
夕雲は蛇行しており原子炉技師ワレリー・ホデムチュク遺体無し
吉川宏志
固有名詞の伝達の難しさは感じるが、この歌の醸し出す濃密な危うさは幻想小説のようだ。これは吉川が想像力を駆使した創造力によって成した一首だろう。さて、歌壇四月号座談会「修辞を支えるもの」では社会詠について「個人的に心に引っかかったことを詠んでいけば、それが結果的に社会を詠んだことになっていく…」(服部真里子)、「歌っていれば自然ににじみでるもの…」(石川美南)など、若い女流の自然でしなやかな姿勢に共感したのだが、この中の引用歌にも注目した。
「正義」とふ青銅の瓶のやうなことば使ひ方は斯うだ叩き付けてつかふ
藪内亮輔
花見弁当ひらけばおもふ ほほゑみに肖てはるかなる〈戦争放棄〉
小島ゆかり
こちらも社会詠だが、口語の韻律や塚本邦雄の本歌取りという現代短歌のレトリックが駆使された歌そのものの絢爛たる迫力に目を奪われる。
ただこの二首で顕著なのは、それぞれ「正義」「戦争放棄」という巨きな言葉、概念を真っ向から詠んでいることだ。
歌人の作歌意識の高さと圧倒的な修辞の力によりスローガン的要素を免れた社会詠に着目してみた。しかしこのような読み手を陶然とさせる短歌の美質は、前述の吉川の行動する社会詠の態度と果たして共存できるのだろうか。
ここで少し視点を変えて事実の強い提示力を感じた社会詠を引いてみたい。
汗溜まるゴム手袋を引きはがしあらはるる二四○○○○○○人の手よ
米川千嘉子
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