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 渡辺松男の第九歌集『雨(ふ)る』を読んだ。私はお会いしたことがなく残念なのだが、歌にはニュートラルな感覚で向きあえる。折も折、同人誌「Trⅰ 短歌史プロジェクト」の第3号で第一歌集『寒気氾濫』までの渡辺の歩みが大井学によって紹介された。「歴史の流れの中で語られるべき歌人でありながら、歴史の類型にうまくあてはまらない作者」であり「同時代の作品とは異なる『小宇宙』を形成している」といわれる渡辺松男。しかし第七歌集『蝶』で迢空賞を受賞し、多くの読者を魅了し続けるその歌は決して「異端」ではないだろう。
 大井はまた渡辺の第一歌集の歌を、「幻想でも写生でもない、世界に対する認識…『世界観』の表出が松男作品の特徴」と述べている。確かにこの第九歌集にも抒情性は意外に薄いと感じた。そこにあるのはそのように生々しく世界を見ているという「実感」である。その圧倒的な実感のつよさに読み手は惹きこまれる。それは情感を飛び越してしまった実存のリアルであり、短歌そのもののリアルであろう。
 ひらきたる眼は牢の門 対岸はゆふぐも照るを自転車がゆく
 大き蠅うち殺したりそのせつな翅生えてわれのなにかが飛びぬ
 巻頭歌にて「眼は牢の門」という。ここから渡辺の病を思わずにはいられないが、同時に自分自身の肉体が牢であり、そこに封じられ何処にも行けないわれの魂という二元論的なイメージがくっきりする。下の句の対岸の夕景をゆく自転車を見る作者の心を想えばせつないが、巻頭歌であるこの歌の主眼は、おそらく上の句で詠まれる作者の実存のスタンスなのだろう。
 二首目は「うち殺す」という不穏な動詞にぎょっとする。これは比喩ではない。ふと茂吉の「ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし」や「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ」を思い出す。
茂吉の「殺す歌」はどこか総括的であったり、過去の記憶であったりするが、
渡辺のこの歌は生々しく今まさに殺したところだ。ここに微妙な忌避感があるのだが、それは上の句のみのこと。下の句には、殺した命がまるで一瞬にして作者の一部として転生したかのような救済に似た感覚がある。そしてこの命の反応はどこかデジタルで、それゆえ多義的である。ここでは「殺す歌」はそれに止まらぬいのちの別の次元の広がりをもつ。
 旻(そら)ゆわれ落下するときみてゐたり羊とよばるる雲の断面
 この幻視は何だろうか。雲の断面にまざまざと屠られた羊の赤い内臓の断面が重なる。そして「旻」は光の衰えた暗い空。落下するわれとは堕天使ルシファーであろうか。
   ※ (  )は、直前の語のルビです。