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さて前回の渡辺松男の歌のいのちの別の次元の広がりについてもう少し考えたい。
看病にうとうととせるまなうらにクヂラうちあげられて眼がない
『雨る』
またもとにもどるさだめを背負はされ馬車とされたる南瓜の気持ち
したうけのそのしたうけのしたうけのさげふゐんぬるッぬるッと被曝す
この歌の眼のないクジラもさだめを背負った南瓜も「苦界」ともいうべき渡辺の現実認識から生じた実感だろう。とくに三首目は震災詠だが、リアルな描写とは違う修辞の効いた詠い方によって、状況の悲惨さ、得体の知れぬ不気味さが際立つ。しかしこれらは生の酷さを詠みつつも、逆にいのちの生々しさが際立ち、アグレッシブな印象である。
生は死のへうめんであるあかるさにけふ青年は遠泳したり
『雨る』
小さな死かさねてゆたかなる死へとそそぐねむりのやうなアマゾン
『きなげつの魚』
ここではむしろ死こそがひとのいのちの本質であり、絶望することはないといわれているようだ。アマゾン河がそそぐ「ゆたかなる死」が海だとすれば、「死」は豊穣な母なるいのちの源ともいえる。生と死は同質であり、生まれる前と死んだあとは同じ円環のうちにある。この認識は人間にとって最後のセイフティ・ネットになる。渡辺の歌から宗教的な救いを感じることがあるのはそのせいだろう。
さて、『雨る』と前後して山田航の第二歌集『水に沈む羊』を読んだ。一九五五年生まれの渡辺に対して、山田は一九八三年生まれの若手だ。両者には共通する感覚がありつつ、しかし根本的には異質である不思議な印象をもった。それは今述べた生と死の捉え方に関するものだ。
発車したバスがつくつたさざ波は自分を水たまりと知らない
『水に沈む羊』
大福のやうにも見えてもう四歩すすめば小鳥の骸(むくろ)とわかる
水に沈む羊のあをきまなざしよ散るな まだ、まだ水面ぢやない
ここには渡辺の世界とは逆転した「不毛なる生の実相」ともいうべき感じがある。さざなみは水たまりであり、大福は小鳥の骸である実相の酷さを山田は提示する。また実相という水面に出れば存在しえない「羊」に心寄せする。
山田は現実を死せる世界として認識した上で、それを虚構の乱反射(穂村弘)によってひと時生かしている錬金術師のようだが、一方、渡辺にはもっと根底から現象としての死そのものを生の豊穣へ変質させた、自然への反逆の匂いがする。どちらももはや「世界の中の素朴なにんげんの私」ではない。そこにはなんとか現実の手綱をとろうとする現代人の狷介な精神を感じる。
※ ( )は、直前の語のルビです。
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