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「現代短歌」七月号にかりんの坂井修一と吉川宏志による対話「ダブル・スタンダードを超えて」が掲載されている。
まず東京大学大学院教授である坂井によって一般人には現状を知ることが難しい大学における軍事研究の問題が教示され、また後半は「近代日本のダブルスタンダード」の思想が語られ、その巨大なる視野の中にある短歌というものに、あらためて畏怖を感じさせられた。そんな体験の一端を少し書き留めたい。
この対話において吉川は「言葉が封殺される」という問題を提起し話題を短歌へと転換した。この「風評被害になる」という言い方で危険性を訴える言葉が押さえ込まれる、あるいは明確なエビデンス(根拠)がなければ危険性を訴えられないという問題には、現実に言葉で社会に訴えることの具体的な困難を生々しく感じた。一方、さらに述べられた「詩歌において直観的な不安感も大切」という吉川の視点からは、短歌が「社会的に訴える言葉」でありつつ、個人が時代をそれぞれに感受し表現する創作の原点である当事者性も掬い上げられるのではないかと思った。
坂井修一は吉川の言葉を受けて、短歌はさまざまな喩法や暗示、韻律上の工夫で単に事実を提示する以上の「直観的な不安感」を出すこともでき、すでに起こったことの描写だけでなく予感や予言のような形でも表現できるという。また古典和歌と前衛短歌の両方の伝統を活かせるので、他のジャンルよりも深い表現ができると述べる。坂井ならではオールマイティの言葉だが、短歌の底知れない可能性と学ぶべき課題をも示唆する言葉と受け止めたい。さらに坂井は「恐怖や不安」は公開されたデータや報道を超えて膨張していくものであり、事実関係が明らかになる以前の「恐怖や不安」を理由がないこととして排除するのは間違いだと断言する。「恐怖や不安」もまたよろこびやかなしみのように止むに止まれず人間の心に兆すものであり、それを述べることも抒情であろう。坂井の言葉によって「こころ」という形のない眼には見えないものが擁護され、歌にある救いがもたらされたような気がした。
このような対話の一方で、この「現代短歌」を含めた複数の総合誌の時評に架空の歌人洞田明子の歌集『洞田』が取り上げられ、かりんでも先月の「今月のスポット」で辻聡之が書いている。
この試みには短歌作品との対話・批評がもはや意味をなさなくなる危惧が述べられつつ、批評のために作品があるのではないとも言われている(「歌壇」七月号西之原一貴)。しかし短歌の「われ」を覆す試みは、短歌そのものの自律性を消してしまいそうだ。若い世代の創作への意識が変わりつつあるのだろうか。
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