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 前回の『洞田』についてもう少し。この巻末には作者一覧が載っているので、読んで気になる歌があれば、すぐに作者名を確かめられた。しかし洞田明子の世界からはその都度引き戻されてしまう。たぶん読者はそれも承知の上で、それぞれの歌が形作っている洞田明子の世界とその構成の妙を楽しむべきなのだろう。アンソロジーとは違うこの作品は、一読者の意識にも「洞田明子」というホムンクルスの生成に参加するよう呼びかけてくるような気がした。
 一首の歌をどう捉えるか。それは作者のその時々の立場によって変わるのだと思う。例えば自分の歌集を編む場合、歌の並べ方や章の作り方など構成によって歌集の印象が変わるので、編者である作者は歌集をより完成度の高いものにするために、一首の歌をその世界を形づくるための素材、パーツとして捉えざるをえなくなる。評論を書く場合もそうだ。文脈の中で引用する歌は、時にその文脈のためのパーツとして作用する。一首をパーツとすれば自ずから歌をいのちの流露というよりは、その歌の内包するテーマの器としてデジタルな視線で見ることになる。すでに生まれた歌をデジタルな視線で見直すことは、短歌を学んでゆく上で不可欠なことだろう。そしてそんな力があればこそ、他者の歌を集めて架空の人物像を形成するような力技もできるのだ。その実験的で先鋭的な試みにはいろいろ考えさせられる。しかしそれを可能にしてしまうデジタルな視線には一抹の危うさも感じている。
 一首をパーツとして捉える視線は、ひいては言葉そのものをパーツとして見る視線につながる。そうなれば昨今話題となっているAIと創作の関係に、むしろ人間が近づいてしまう。そして短歌を短歌たらしめる生生しいものは解体され歌のいのちが失われていくのではなかろうか。編者や評者として分析するデジタルな視線は磨きつつ、一方で純粋な歌の作者としては、この視線は封印するべきかもしれない。しかしそれでは現代の作者たちは、なにを目指すべきだろうか。
 現代短歌新聞八月号で川野里子は「近年、いよいよ瞬間化、断片化してゆく傾向にある表現に、人間の全体性を回復してゆく契機として『声』を思う」と述べている。またAIと短歌を考察する角川短歌8月号時評で佐佐木定綱は「短歌はリズムや調べ、ひびきという音楽を包括した芸術であり、耳から入ってくる短歌の魅力を忘れてはならない」と訴える。それぞれ捉え方のベクトルは違うが、どちらも人間の肉体に根差しており、短歌の意味性と鮮やかに対比されるところに、一つの方向性が見いだせるだろう。AIには持ちえない人間ならではの方向性が。