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今年の現代歌人協会賞は吉田隼人の『忘却のための試論』となった。
二年ほど前、角川短歌賞を受賞した吉田の歌と大森静佳の歌を引いて「偏在するメタ自我」について考えたことがある。その時引いた歌が今回の自選二十首にあり、感慨深かった。やはりその基調は「現在に己を収束させる自我とは違う、メタ自我」の「われ」が世界をどう見ているかだと思う。ここではわれと世界が絡まって泥まみれになることはないのだ。魅力的ではある。でもつくづく現代では「我に没入する歌」は詠まれないのだと思う。
枯野とはすなはち花野 そこでする焚火はすべて火葬とおもふ
吉田隼人
たとえばこれは修辞の力によって「現在」を起点とする順当な時の流れからは自由になった二重映しの世界だ。ここでは現在の枯野にいる作者が、そこで花野を想像する、というオーソドックスな詠い方にはなっていない。作者の視点はもっと高いところにあり、枯野と花野の両方の時空を重ね合わせて同時に幻視することができる。花野で火葬される「花」はどこか人のようでもある。そうして立ち上がるのはある滅びの感覚だ。やはりこれは「われの居る世界」ではなく「われの見ている世界」であり「われが(頭の中で)造る世界」ともいえるだろう。
ほろびるね、ほろびるよ、とぞいひあへるゆめのきしべにあなうらひたし
吉田隼人
こちらはかりんの全国大会で「いのちの歌」の歌として引かれた一首だ。
馬場あき子はこの歌について「ほろびるね、ほろびるよ」は年長者にはなかなか言えない現代の若手の感性であり、先行きの見えない時代の不安と若いいのちの脆弱さ、滅びることへの共感がよく出ていると評した。現実の戦争を体験し「滅びる」ことの実際を知る世代にとっての実感だろう。
馬場は否定はしない。若い感性に寄り添い下の句の「ゆめのきしべ」にはかすかな救いがあるともいう。しかし豊穣な宝箱である著書『寂しさが歌の源だから』で述べられた「短歌とは私を差し出す、心を差し出す、自分のどこか真実のものを読者の前に差し出すものだ」という馬場の思いから、現代の若い歌は遠ざかりつつある。「人間が消えてしまった文学はもう文学ではない」という馬場の言葉は深く強く響く。しかしその一方、この「ほろび」がリアルでないともいえない。「ゆめのきしべの予感」であったとしてもそれは作者の実感なのだ。現代は一つの言葉の内包するリアルの物差しがどんどん変わっている。体験と言葉は直結しているということ。体験によって人の意識が変わり、言葉の内包するものも変わってしまう未来。われわれはそれをどう受け止めればいいのだろう。
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