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 前回、体験と意識は直結していて、体験によって人の意識が変わり、言葉の内包するものも変わってしまう未来を思った。しかし体験と意識の直結といえば、未来を思うより、その最たるものは戦争体験である。
 短歌研究八月号の特集「七十一年目の八月」には戦争を体験した世代と、体験していない世代の両方からアプローチがなされ「戦争」を立体的に浮かび上がらせる好企画と評価されている。(喜多昭夫)同誌十月号時評にて喜多は平成生まれの石井僚一の論考と提出歌を取り上げ、一定の理解を示しながらも同調できないという。この特集には筆者も戦後生まれ側で執筆しているので「体験していない立場の難しさ」は身をもって感じたのだが、やはり石井の叙述には極端な印象を持った。「かつての、そして今の戦争を考える」という特集のコンセプトへの寄稿が「今を生きている人がそれぞれの悲惨さを抱えているなかで、一体戦争について考えることにどれほどの意味があるだろう。今、戦争というものが自己の悲惨さの核にある人がこの場所にどれだけいるだろう」といわば企画そのものへの反意となっているのだ。戦争を体験していない立場からのこの発言は極めて潔いともいえるが、同時に挑発的な印象も拭いえない。角川短歌九月号の短歌月評では日高堯子がこの特集について「戦争というテーマでは、体験を直に歌うにしろ、故意に歌わないにしろ、生身の記憶から発せられる言葉の力に敵わないところがある。難しさもそこにあるだろう」と本質をつく指摘をしている。折しも同じ誌面で、日高は歌壇八月号の馬場あき子の作品「空襲と牡丹」を取り上げているが、戦時中の記憶からなるこの一連はまさに「生身の記憶から発せられる言葉の力」を思い知らされる。
 労働のもとなる臭き鯨肉に吐き眩みたる非国民われ
                              馬場あき子
 行動の早きもののみが生き残るこれが戦争と知りて走りき
 一方、短歌研究で石井が「情報としての戦争」から詠まれた「私」のいない歌として引いた若手の歌、そして石井本人の返歌はこのようなものだ。
 戦争はビジネスだよとつぶやいて彼はひとりで平和になった。
                              木下龍也
 戦争はよくわかんないな とりあえずぼくはちゃんと社会的になりたい
                              石井僚一
 こんな風に比べること自体が禁忌に思えてしまうほど、戦争体験の有無は人の意識にかくも直結している。しかし同じ短歌というカテゴリーの中で、この落差に目を背けてはいけないような気もする。「体験には敵わない」という真理の向こうに、表現の荒野は別の世界の位相をみせて果てしなく広がっているのだ。