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人は体験をすることで意識が変わり、言葉の内包するものも変わってしまう。それは人間の宿命だが、だからこそそんな時の流れにいつまでも残っていく普遍的なものにつよい憧れを抱いてしまう。
燃えおつるせつなの紙の態して百合咲きてあり燃えおちざりき
吉田隼人
ここでは時が凍りついている。作者は「燃え落ちる紙のせつな」を神の手つきで掴み上げみずみずしく百合の咲く時空に重ね合わせる。植物の開花が、燃え落ちる紙というどうしようもない滅びの始まりに置換されうるこのうつくしさに普遍性を感じる。ここにはあえて「私性」を持ちだす必要もない。そういう歌だ。作者の吉田隼人は短歌の「私性」の複層性を確信しつつ、歌集『キリンの子』の事実性の強さに言及し、「改めて〈私性〉の怖ろしさを思い知らされる」という。また作品から作者を切り離す行為を「〈私〉の悪魔祓い」と呼ぶ。(ユリイカ八月号「あたらしい短歌、ここにあります」)
一方、井上法子は塚本邦雄の短歌に衝撃を受け「わたしにとって、うたにおける〈私〉はこのわたしではない。そういう存在でありたい、と願う」と述べ、さらにはっきりと「にんげんではない何かの視点をもって、世界を眺めねばならないのではないか」とまで述べている。これはメタ自我であり、いわゆる「神の視点」の自覚だろう。
かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか
井上法子
たしかにこの純度の高いうつくしさは生身の事実性からは生まれないのかもしれない。しかしそれにしても、吉田と井上のこの「私」への忌避感と潔癖さは何なのだろう。
事実性の強さは、戦争のテーマでいわれた「生身の記憶から発せられる言葉の力には敵わない」という真理に微妙につながってくるが、事実性もまた作品となった時点で、すでに創作性を帯びているはずだ。そして一方、生身の「私」を切り離しても「神の視点」でみている〈私〉の実存までは否定しえないパラドックスがある。個人的には「私性」の複層性はもっとも収まりがよいと感じる。この複層性に、読み手を絡め取るような事実の物語性も、「私」を悪魔祓いしたメタ自我の〈私〉も収斂されるのではないかと思うのだ。しかしそこにもう一つ「短歌とは私を差し出す、心を差し出す、自分のどこか真実のものを読者の前に差し出すものだ」という馬場あき子の思いを、メタ自我の〈私〉、自身の創作世界の「神」である〈私〉に差し出したいと思う。ここには不特定多数の読み手に対して「差し出す」という一抹の謙虚さと覚悟がある。創作に態度論は禁物かもしれないが、畢竟するにどんな作品も「自分」ではあるのだ。
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