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 昨年の短観研究新人賞の十八歳の武田穂佳の作品の「あの夏と呼ぶ夏になると悟りつつ教室の窓が光を通す」について選考委員の穂村弘は、個性や自分の世界観を身につける前の無名性の光、いずれは消えてしまうそういう淡い光に包まれた初期作品に惹きつけられるという。得ようとしても得られないうつくしい儚いものへの希求が選考基準となることに、あこがれとやるせなさを同時に感じた。そこでは、生身の歳を重ねる作者その人ではなく、その作者が得たひとときの煌めきが選ばれるのだ。そしてその時から作者は自分自身の今の煌めきと、戦わねばならなくなる。もちろん若い作者は成長して、人生とともに歌も変わっていき、個性や世界観を備えたすばらしいものが生まれるかもしれない。それはまだわからない、そこに「将来性」という要素はあるけれども、選ばれる側が未来を見通せないという理そのものに、残酷さは潜んでいる。
 歌林の会では昨年、十一月十二日に古谷円歌集『百の手』批評会、十二月三日に大井学歌集『サンクチュアリ』の批評会が行われどちらも盛況だった。
  いまここにあるもの愛でて暮らすこと子らは上手でこの町を撮る
                           古谷円
  わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
                           永井祐
 古谷の歌に永井の歌が対比され、同じことを詠んでも文体で歌が全然違ってくるというパネラーの栗木京子の指摘が興味深かった。この二つの歌は作者の視点が丁度反対になっている。改めて短歌の構造も考えさせられた。
  コロッケパン食べつつ丘を上りくる高校一年の開放感は
                           古谷円
 個人的にはこのようなさりげない歌がよいと思う。
 ところで短歌でも歌に「われ」が明示されていない歌は、現実とリンクしていきなり見え方が変わることもある。例えばある一首に作者が自分自身を託して詠っているのか、他の何かの対象を詠っているのかの視点を変えると、急に受ける印象が逆になったり、見え方が変わったりする。
 パネラー兼司会の坂井修一は大井の歌を「考えることと感じることが一体化している」と洞察しもっと考えることを裏切る人間くささを、と述べる。その一体化の緊密さの中に大森静佳のいう(角川短歌十一月号)自意識の臭気は立ち込めるのだろう。
  生きるとはハネを伸ばさぬことである見よ標本の蝶の死に様
                           大井学
  靴紐を結ぶすなわち今日のわが足を見つめる蝶を創れり
  「我」という文字そっと見よ滅裂に線が飛び交うその滅裂を
 滅裂とは怖ろしいものだ。