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「そもそも人が捉えている誰かの人物像なんて、記憶の中のどの情報を引き出し採用するかによって一方的に構築されていくもの」(朝日新聞「クラウドガール」最終回)
これは今の自分自身にかなり響く言葉だった。たしかにそのように構築されたイメージで、人は思いもよらない所に追い詰められることもある。
瓶のウィルキンソンを逆さに立ててみる ずるしてもあなたは老いてゆく
阿波野巧也
金属の手すりがすこしへこんでるだけなのにとことんさびしいな
短歌研究十一月号「新進気鋭の歌人たち」より気になる歌を引いた。一首目の二人称「あなた」はいわゆる相聞的な「きみ」とは思えない。それでは誰なのだろうと思う。短歌の「われ」はどのようにも詠める。それをどんなに高めても、低めてもすべてが自分自身に回収されるからだ。しかし「あなた」は違う。「ずるしても老いてゆくあなた」には対象とする他者がいるのか、それとも普遍的な不特定多数の「あなた」なのか。だとすればこの「ずる」とは何か。ここにさきほどの「一方的に構築されていくもの」を感じるのだ。二首目は対照的に作者自身にすんなり回収される作りで、口語ならではの屈折した韻律に共感できる。ひとりの作者のベクトルが自分に向くときと他者に向くときでは全く違ってしまう。これが現代なのか。
さて角川短歌年鑑の座談会にて、大震災以後の経験主義、(魚村晋太郎)とその揺り戻しによって、あたらしい世代が〈私〉の体験への反発を含んでそれとは違う、新しい流れを提出した(川野里子)というアウトラインがくっきりと示された。一方川野は、その新しい流れとは違う若い世代の「経験」に対する暗黙のリスペクトの高さを述べる。そして文学は想像であり、体験したかどうかで分断されるものではなく、イメージで本質に近づくのが文学だという。これには深く共感するが、一方で理想的であるがゆえの危うさも感じた。イメージによって本質に近づくとき、そのイメージを生み出すのは作者であり、作者の体験である。この体験の部分で「嘘をついてはいけない。事実そのままの短歌でなければいけない、体験をそのまま詠った歌集が人々を感動させる」(大辻隆弘)という今の風潮が問題なのだと思う。そもそも事実そのままの短歌といえども、それは作品である。そして現実は嘘と本当にきれいに分けられるものではなく、いつでも因果で雁字搦めだ。そのどの部分を採用するかで物事の見え方は変わる。そこに単純な良い悪いの評価を下してしまうところから、自分自身に回収することのない文学の「一方的な構築」が始まるのだ。
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