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前回とりあげた角川短歌年鑑座談会の「イメージで本質に近づくのが文学だ」(川野里子)という論の「イメージ」を具現しているような水原紫苑のいくつかの歌を思った。
投げられしナイフを避(よ)けて踊りゐし未生のわれの髪繊(ほそ)かりき
『くわんおん』
大いなる車輪はわれに向かひ来つ避(よ)くれば落つる食人花園
たとふれば紋甲いかのぬらぬらと刃(は)をすべらするわが魂(たま)ならめ
『びあんか』
一首目は現実の場面として読むとわからない要素が多いが、心理的な喩として受け取ると実写的な歌以上に作者の内面が生々しく感じられる。(筆者「66」)実写では伝えきれないものがここには表現されている。これは川野のいう「イメージで本質に近づいている」歌といえないだろうか。二首目も同様に現実の描写としては肯いがたいが、巨大な車輪を避けなければ轢かれ、避ければ今度は人間を食べる花の園に落ちて食われてしまうという短歌ならではの簡潔な提示は、人生におけるある困難極まりない状況が暗示されているようだ。また三首目は第一歌集の歌で、前の二首より具体的な「紋甲いか」という「物」があるが、詠まれているのは、紋甲烏賊のようなぬらぬらのバリアを持つ自分は魂に致命的な傷を負うことがないという、目には見えない自身の本質であり、さらに「たとふれば」という詠い出しからこの歌がイメージを駆使した「喩の歌」であることを読み手に伝えている。
文学とは「言葉では表せないことを、それでも言葉で書いたもの」(言葉の贈り物)であるならば、文学はそして短歌は、言葉では説明しきれない「イメージ」と密接に関わっているといえるだろう。これらの歌の喩として機能するイメージの鮮烈さはそこに息づく生き生きとした象徴性によるものだと思うが、それはイメージが作者自身のいのちと分かちがたく結びついているからだ。さきに挙げた三首はいずれも「われ」の歌だ。イメージは「私」の体験そのものであり、「私」以外に―「私」が表現しない限り―知りようがないのである(河合隼雄「イメージの心理学」)。誤解がないように述べるが、これは川野里子と大辻隆弘が述べた、一部の若い世代のリスペクトする「経験」、あるいは「体験した事実そのまま」の「事実」とは違う。現実を生きる「われ」の魂の体験から生まれる産出物である。それは「われ」と臍の緒で繋がっている限りにおいて力を持つ。それには写実的な歌であってもそこにイメージが働けば同じである。
しかし一方、「われ」を語らぬ言葉におけるイメージは、その根拠えを誤れば、文学とはかけ離れた単なる共有のための記号や合言葉に容易に堕落してしまうだろう。
※( )内は前の漢字のルビ
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