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  生きてゆく練習をしてゐるうちに畢つてしまふ アオスジアゲハ
                           大松達知
  いきないか、咲きながら散るゆきたちを花だと誤認して生きないか
                           藪内亮輔
 角川短歌1月号より気になる歌を引いた。この二首の「生きる」は東日本大震災のような予期せぬ天災や事故や病気に、奪われ脅かされる絶対的な命の位相ではない。しかし人間(じんかん)で犯罪やいじめなどのトラブルに遭わずに、また立場や面目を失わずに自己実現を目指して「活きられる」かどうかは、これも「生きる」ことの根幹だろう。この二首の内容は対照的だが、どちらの歌にもこの「生」に関わる絶望と救済が表裏一体になった現代という残酷な時代の深みを感じる。大松の歌の上の句は一片の甘さもなく痛烈である。しかし世の中ってこんなものだなとも思わされる。それは「畢つてしまふ」という現在形によるのだと思う。これがもし「畢つてしまつたアヲスヂアゲハ」なら、痛いけれどわかりやすい擬人法の歌だったろう。下の句の一字空けと「アオスジアゲハ」の現代仮名遣いに微妙な位相のずれと深みがある。「アオスジアゲハ」が、「アヲスヂアゲハ」ではないことで、上の句の理の対象としてではなく、そういういのちのあわれを具現するイメージとして、違う次元の「アオスジアゲハ」が存在する。そこに微かな救済の気配を感じるのだ。これは読み手の希望による勝手な解釈かもしれないが。
 一方、藪内の歌は語りかけのリフレインがせつせつと響く。「生きないか」は今生き難く感じている者へのヒューマニティー溢れた語りかけのようだ。しかしこちらもそう単純ではない。「咲きながら散るゆきたちを花だと誤認して」生きないかという。つまりありのままの現実はそこで生きられるようなものではなく、それは「誤認」してようやく受け入れられるのだ。誤認は「違うものをそうだと誤って認めること」だから自然な正しいこととは言い難い。しかし、そうしてでもともかく「生きないか」と作者はいう。現代は「ポスト現実」といわれる政治的状況がツイッターなどのSNSで広がり、客観的な事実を軽視する様はまるで中世のようだという。(朝日新聞二月十七日)そしてこの中世化が反転すると今度は、前々回に述べた若い世代の極端な「現実そのままのリスペクト」になるのだろう。どちらにしても個人のいのちの気配は薄い。この時代を短歌もまた鏡のように映しているのだと思う。いのちの気配は人間味のある抒情だ。それが歌に血を通わせる。この欄の初回に「短歌が短歌であることの本質はリアルであること」と書いたが、そこに戻ってきた。リアルであること、そのためにはもっと抒情を。
 今回で私の担当は終わります。

※ 文章三行目 人間(じんかん)カッコ内はルビ