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 四月終わりの昭和の日、俳句結社「船団の会」のフォーラムに参加した。『池田澄子百句』『坪内稔典百句』刊行記念で、テーマは「口語の時代の俳句」である。池田と坪内の対談を第二部に据え、第一部では若手俳人や詩人、歌人を交えたシンポジウムが開かれた。「口語の可能性」というタイトルが示すように、口語表現の未来について考えさせられるものだった。
  流氷動画わたしの言葉ではないの 田島健一
  桃熟れてもうすぐ叫ぶ叫んでしまう 鎌倉佐弓
 これら若手の作品は、一句目に見られる「私」の表れ方、二句目の「時間(物語)」の導入など、口語を用いることで生じる効果が興味深い(特に二句目には、永井祐の「白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう」のような展開が見られる)。「私」の表出も「時間」の扱い方も、ふと、短歌の話をしているのかと錯覚するほどであり、口語という共通のコードによって俳句と短歌が近接している印象を受けた。おそらくは、詩型の違いを越えて響き合う問題ということなのだろう。
 さて翻って短歌の話である。『短歌』(二〇一七年五月号)では、「平成短歌の考察」と題して、震災やインターネット、「われ」の変容などを切り口にしながら、この三十年ほどの短歌の流れを振り返っている。その中で、口語短歌について奥村晃作は次のように言う。
 塚本邦雄や俵万智と同様に鍵は方法としての句跨りにあるが、土岐友浩は、究極の句跨りとでも言うべく誠に自然かつ微妙な句跨りを導入し、口語短歌を完成せしめた。
 ここで奥村が例に挙げているのは、「牛乳を電子レンジであたためてこれからもつきあってください」といった歌である。確かに、言葉を定型に押し込めた感触はなく、洗練されている。しかし、「完成」とは何だろうか。
 先述のシンポジウムで神野紗希は、口語の俳句は平板になりがちであること、それを補うための恋愛や戦争など「テーマ」の有効性を指摘した。また、詩人の橘上は「(口語を象徴する)等身大という言葉が、今の日本では矮小化されているのではないか」と、日常の言葉で政治などの社会的テーマが語られることを訴えた。
 短歌では、「愚か者には見えない銃と軍服を持たされ僕ら戦場へ征く 山田航」、「ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也」などが挙げられる。山田や木下も現代の世相を歌にしているが、土岐の口語がもつ「等身大」とは少し異なる(二首ともに「僕ら」「ぼくたち」と大きな主語だ)。口語短歌に残された未開の地は、戦争や政治といったテーマを個人の「等身大の言葉」で詠むことなのかもしれない。もちろん、プロパガンダではなく。