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 今年は窪田空穂の生誕百四十年、そして没後五十年。『短歌』(平成二十九年六月号)では、一冊のおよそ三分の一の頁数を費やして特集が組まれた。遠かった自分の源流が、空穂の生きた姿を知る馬場あき子や岩田正の言葉によって身近に感じられた。
 特集は、空穂の歌の特徴を整理しながら、その魅力を語る点でおもしろい内容だった。しかし、ひとつ引っかかるのは、特集タイトル「いまこそ空穂」である。この「いまこそ」に込められているのは、空穂のような歌、誌面の言葉を借りれば「生活実感に即し、大きな感動よりも微かな心の揺らぎを捉えんとする表現」が忘れられがちな「いま」への警鐘と捉えていいかもしれない。篠弘は、特集の総論で次のように言う。
  晩年にあたる六十七歳からの作品は、(中略)より若い世代に対して、作歌が果たす内省的な心理の機微の表現をめぐり、リアリティをもつために大いに暗示するものがあろう。
 「より若い世代」は、果たしてどれくらいを想定しているのだろうか、と勘繰ってしまう。それは、前月号で「平成短歌」を取り上げて状況を整理しつつも、少なからぬ不満が語られていたからである。
 折しも六月号の時評において、松村正直は、一人の歌人の作品を読み続けることの意味についてふれている。短歌と作者の人生を密接に結びつける読み方と言えるだろう。今、それこそ「気分」のように「人間」や「人生」を歌に求める空気が濃く立ちこめてきていて、その空気は、むしろそうした旧来の短歌から逃れようとする若者の歌を批評する声によって、醸成されているのではないだろうか。
 一昨年、短歌における「人間」が話題になったのは記憶に新しいが、世代によってその捉え方が異なる可能性も示唆された。同様に、「生活実感」もまた全世代に共通するものではない。
  髪の毛が遺伝子情報載せたまま湯船の穴に吸われて消える
                               谷川電話『恋人不死身説』
  二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す
 どちらも穂村弘が解説で取り上げているように、「遺伝子情報」や「唾液」という目に見えない情報が、些細な場面に異様な質感を与えている。しかし、例えば二首目の「ペットボトル」に生活の実感を感じ取ることが、六十代、七十代の人間にどの程度できるだろうか。
 世代の異なる他者の「生活実感」をどのように読み取るのか、あるいは実作者としてどのような手法を用いて「生活実感」を読者に手渡すのか。それを考えることが、今、空穂を読む意義につながっていく気がする。