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 時評とは何か。
 ということを漠然と悩んでいる時に、ちょうど「塔」(二〇一七年六月号)に収録された座談会が「時評・批評」に関する内容だった。黒瀬珂瀾やなみの亜子、若手では阿波野巧也らがそれぞれの立場で語っているのだが、みな同じように苦しんでいることになんだか安堵してしまった。
 時評の役割を考えると、読み手にはその時々のトピックの収集、問題の把握になるだろう。一方、常に「ネタ」を求める書き手には自身の問題意識を顕在化させる加速装置となる。それは個人の短歌観の形成・強化に繋がるのかもしれないが、反面でどこか恣意的に問題を作り上げているのではないか、という疑念が頭をもたげるのも否めない。
 先の座談会の中で、花山周子は、時評や批評に関するジレンマを告白している。
 花山 あとやっぱり時評とか批評のスタンスとかセオリーっていうものがどうしてもあるじゃないですか。それは近代から作り上げてきたフォーマットなんだけど、それがあまりにも充実しすぎてるせいで、歌集批評にしてもそこから出られなくなってるというか、新たなスタイルをなかなか生み出せない。
 既存のものとは一線を画す作品、が存在した場合、それまでの批評のコードではその「新しさ」を十全に読みきれない。そうした危惧は、作品に対して真摯に向き合うからだと思う。他に、黒瀬の「例歌だけ変わって、延々と同じことしゃべってきたのがここ数十年の短歌時評なのかなあ」というつぶやきも、見逃してはいけない視点だろう。
 さて、最近活発な同人誌の中で、評論を中心に据えるのが、大井学が進めるH2O企画の同人誌『Tri』だ。第5号では、短歌史における論争を取り上げている。塔短歌会の濱松哲朗がフォーカスしたのは、佐佐木幸綱と松村正直との間に起きた二〇〇七年の論争。具体的内容は、ぜひ実物を手に取ってほしい。本筋を外れて興味深いのは、論争の中で両者が使った用語が持つ意味の食い違いである。つまり、一つの作品を批評する時、たとえ同じ言葉を使っても異なる意味を指す可能性がある。現在でも、「私性」という用語が時に誤用され、また短歌の〈私〉については、『短歌』(平成二十九年四月号)で堀田季何が論じるように、従来より細かな定義による分析が可能になっている。
 批評の言葉はアップデートされる。翻して言えば、耐用年数がある。それは、古びた言葉は作品に適用できなくなると同時に、批評の場で共有できなくなるということだ。その時のために、何ができるか。変化に耳を澄まし、状況を整理し、記録すること。そうか、時評だ。