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ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』
漫画のワンシーンのような切り取り方で、軽い文体がかえって状況の寒々しさを感じさせる。この一首を支えているのは、結句の「後ずさる」という着眼点の、じわりとしたリアリティだ。
北朝鮮から発射された弾道ミサイルが早朝の日本にけたたましくアラートを鳴らしたことは、まだ記憶に新しいだろう。ミサイルが着弾したのは海だったが、アラートが鳴ってから数分後の着弾、広範囲への呼びかけなど、話題になったのは「本当に対応できるのか」であり、「見上げる」ことも「後ずさる」ことも現実的には不可能に思えた。という指摘は、この一首において無粋かもしれない。しかし、「想像」を詠う時、現実が追いつくこともある。
一時間後「反政府軍との戦闘」は「現地の事故」と言い換えられる
リツイートは共謀と見做す根こそぎに引きずりだせと閣議が決める
ユキノ進「弔砲と敬礼」
今年の短歌研究新人賞において候補作となったユキノ進の作品「弔砲と敬礼」は、安保法案やテロ等準備罪などを下敷きにしながら、近い未来にありえるかもしれない日本の姿を描き出した。誌面に掲載された十三首からも、映画を観ているような緊迫感が伝わる。選考委員の栗木京子や米川千嘉子からは既視感や素材の扱い方について指摘があったが、加藤治郎は次のように擁護し、強く推している。
作者個人や状況との私的な接点は敢えて全部消して、フィクションなり、シミュレーションでやることによって、実体験から短歌作品を自由にしている。作歌のもう一つのあり方を示した一連ではないか。
この加藤の言葉は理解できる。体験していない出来事にどれほどのリアリティを与えられるのか、それは作者の力量しだいになるが、作品に読者をねじ伏せる力さえあれば、実体験の有無はそれほど問題ではないように思う。しかし、その一方で立ち止まってしまうのは、もしも、その「想像」に現実が追いついたら、と考えるからだ。例えば本当にミサイルが落ちたら、冒頭の歌はどのように読まれるだろうか。その前後で評価は全く変わるのではないか。また、この不安定な社会情勢と過剰なSNSの渦の中で、ユキノ作品のような事態は生じないと言えるだろうか。
想像でなければ詠めないものは、きっとある。しかし、その「想像」がどれだけ「現実」と隔てられたものになるのか、そこにこそ、作者の想像力は試される気がする。
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