|
|
|
|
|
『うんこ漢字ドリル』(文響社)が売れている。教材の分野でどの程度のヒットなのかは分からないものの、書店に平積みされていることからも、その人気の勢いは窺える。中身はいたってシンプルで、「おじいちゃんがうんこをじっと見ている」「うんこと結論は、早く出すほうが良い」など、必ず「うんこ」という語句が入った例文で漢字が学べるというものだ。作者の古屋雄作は当初、「うんこ川柳」を考えていたらしく、ユーモラスな例文には笑ってしまうものが多い。多くの良識ある大人は眉を顰めそうだが、子どもが興味をもち自主的に勉強できる、というのが売れる理由だろう。
ひかりそめし空気の中をフンコロガシわたしうつとり玉をころがす
坂井修一
『短歌』(平成二十九年十月号)の坂井修一とアーサー・ビナードによる対談には、フンコロガシが登場する。自然やAIの未来も絡めながら、お互いの文学観が語られていく中で、ビナードはこんな危惧を述べている。
生態系の問題だけじゃなくて、僕らの日本語が絶滅危惧種になるかもしれない。これから日本語が、グローバルのITの渦の中で、発展して生き残るのか、それとも五十年百年後、劣化した英語に取って代わられるのか。
この危惧は日本語という言語の絶滅とともに、背景にある文化の喪失を捉えている。そのうえで「言葉が力を持つために、自分達がどういう歌が作れるか、どういう詩を作ったらいいか」と問う。
同じく十月号の時評では、口語短歌が定着してきた現状だからこそと、山田航が「児童短歌」を提唱している。それは、「早いうちから短歌のリテラシーを鍛えることは、読者層を広げる一助にはなるだろう」という、子どものために作られた短歌の可能性だ。既に二年前、現代短歌のアンソロジー『桜前線開架宣言』(左右社)を編集した山田には、短歌をコンテンツとして広めていくことへの思いがあるだろう。それは、ビナードの危惧する「日本語の絶滅」と根を同じくするだろう。ただ、ビナードは作者(文学)の問題として、山田は読者(アクセシビリティ)の問題として考えているところに両者のスタンスの違いが表れている。
優れた歌が全ての人間に理解されるわけではなく、全ての人間に理解される歌が優れているわけでもない。「わかりやすさ」という評価基準の難しさがここにはある。
もしも万が一、『うんこ短歌集』なるものが作られ、空前のヒットを飛ばしたとしたら。それは、短歌という「文学」を生かすだろうか、それとも、殺すだろうか。
|
|
|
|