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この二十余年の間に起こった世界を揺るがすいくつもの大きな出来事を、歌人は常に歌い続けてきた。歌わざるを得なかった、と言うほうがいいのかもしれない。短歌は現実と陸続きにあり、だからこそ作品世界は容易に現実に侵食されてしまうからだ。
紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
大辻隆弘
空爆の映像果ててひつそりと〈戦争鑑賞人〉は立ちたり
米川千嘉子
この二首はどちらも二十一世紀以降に勃発した戦争を、遠く離れた日本の地において、自らの胸に引き寄せて歌っている。大辻の歌に見られるのは、我々遠い島国の人間が内に秘めている、極めて冷静な悪意と言えばいいだろうか。それを「爽快」と言い切ってしまうのは勇気か、それとも愚かさの表れか、いまだ結論は出せないでいる。米川はもっとドライな目線、つまり、戦争に対して徹底的に傍観者であろうとする目線から、結局は何もできないわれわれの無力さを告発する。この二首の間に〈正しさ〉は存在しない。〈正しさ〉は、それを求める全ての人と同じだけの形があって然るべきであった。
俺、風嫌い 遺体を運ぶトラックの音と今でも間違えるんだ
佐藤涼子
アフターかウィズのままかを問われても答えの出ない二十一年
犬養楓
佐藤は東日本大震災の被災者として、その生々しい現実を、息遣いや臨場感を歌う。犬養は新型コロナ関連の当直医の立場から、既存の価値観を崩壊させた感染症社会の最前線を描く。当事者と傍観者が分断された震災詠から、誰もが当事者としての立場で歌わざるを得ない状況にあったコロナ詠へ。しかし、コロナ詠にもまた、ある〈正しさ〉の意識によって分断された当事者と傍観者の世界があったことは、日々更新される現実に踊らされる、我々の姿が証明したことではなかったか。
総合誌上には二〇二二年二月に勃発した、ロシアによるウクライナ侵攻を歌う作品が目立つようになった。私はそこに、歌人たちの微妙な意識の変化を感じ取る。
東京に桜咲くころウクライナ国花のひまわり踏みしだかれつ
栗木京子
この空の青のむかうにつづきゐむウクライナ爆撃の惨しのび佇つ
屋部公子
栗木作品は「短歌」、屋部作品は「歌壇」、それぞれ六月号より引く。同時多発テロよりも、震災よりも、コロナよりも、ウクライナはずっと遠くにあるはずのものだ。だが、文字通りの傍観者ではいられない危機感を、我々はすでに共有している。侵略者である隣国と、複雑な領土問題を抱える辺境の国に暮らしていることを、自覚して歌っていくようになるのだろう。
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