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おとずれた転機
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「心なき身にもあはれはしられけり」とは、いわば一種の揚言である。上出来の冷えさびた心の景のような下句、一羽の鴫のうらぶれた一点を芯として、広がる世界の夕ぐれ、その無援の孤独感、それだけで充分なのだと言いたげな俊成の心がみえる。今は地名ともなっている「鴫立沢」だが、中世初頭の心の風景として「鴫立つ沢の秋の夕暮」は、花も紅葉もない「浦の苫屋の秋の夕暮」と一双の痛切さを伝えるものとして読まれるのが当然だろう。
ついでながら、三夕の歌のトップに置かれたのは寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」である。ここには、「鴫立つ沢」や「浦の苫屋」のようなくっきりした景はない。それはむしろ、今日からはきわめて曖昧とみえる「その色としもなかりけり」という表現がもつ、ふくらみと広がり、いわば「何となく艶にもあはれにも」ひびいてくることばの魅力である。色なき色の中に、人はそれぞれ、何となく色なき色の彼方に眠るさまざまなものを、空想したり、思い出したりするものだ。
話を戻そう。といっても、どこに戻すかである。俊成の人生に決定的な転機をもたらしたのは最大のライバル藤原清輔の死であった。清輔は六条藤家(とうけ)とも呼ばれる歌の家の主(あるじ)。すでに『奥義抄』や『袋草紙』などの歌学書を著し、歌壇の重鎮として二条天皇の信任が篤かった。特に右大臣兼実家に和歌の師として迎えられており、歌会、歌合などを行なう時の中心となる人物である。俊成よりは十歳ほど年長であった。
当時、六条藤家に対応しうる歌の家としては俊成を中心とする御子左家(みこひだりけ)があった。歌合の評のことばや、歌風の差などに相互に納得のいかぬことなどがあり、しだいに相手を意識するような対峙感が生まれつつあった。つけ加えればこのどちらにも片寄らず、自由に思うままの歌話を交わしあえる場として、歌林苑の歌会もあった。勅撰集五代目『金葉集』の撰者でもあった源俊頼の子俊恵が、白河にあった別荘を提供して毎月、月例歌会やその他のさまざまな歌筵を設けていた。会衆は殿上に到らぬ地下の歌人が中心だったが、俊成の話題も多く、判者となったこともある。また、実定卿のような殿上人も参加することがあった。
右大臣家の歌の師、六条藤家清輔が七十三歳で亡くなったのは治承元年六月二十日のことである。右大臣兼実の悲歎は大きく、日記にその死を言葉を尽して悼んでいる。
※ ( )内は前の語句のルビ
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