|
|
 |
|
|
 |
おとずれた転機(二)
|
 |
 |
清輔が亡くなったのは安元三年六月二十日の朝八時頃であったが、その報は時をおかず兼実のもとにもたらされた。この安元の年号は八月には治承と改元されるので、治承元年の方が通りがよいかもしれない。兼実は和歌の師の死去に衝撃を受け、「和歌の道は滅亡するだろう」と嘆き、自分がこの道に入ったのは清輔のおかげだと、思わず涙がこぼれたと、その日録『玉葉』に記している。
時代はややに危険な動きも孕みはじめ、六月はじめには平家の専横を憎むあまりの謀議が、法勝寺の執行(しゅぎょう)俊寛僧都の鹿谷の別荘で発覚し、きびしい処分が行なわれた。しかし、年も改まり治承二年になると、清輔を失った兼実の歌心はその空白を埋めるように強く動きはじめたようだ。新年の四日には、立春に当って来訪したものと「立春」の題で歌を詠みかわし、十五日の小正月の節(せち)では身辺のものと小歌会を催したりしている。
二月に入るとさらに隆信他の歌人と歌会を催し、亡き清輔の歌書について、季経と語り合ったりしている。兼実のこうした歌への希求の高まりを目にした隆信は、早速俊成を右大臣家の歌の師として迎え入れるべく動きはじめた。隆信は俊成の妻で、かつて美福門院加賀と呼ばれていた女性が前夫〔仏門に入る〕との間に儲けた男子で、定家には異父兄に当る。当時すでに似せ絵〔肖像画〕の上手として知られ、官僚としても有能であった。
隆信は二月二十六日、兼実邸に赴き、俊成の名を出して兼実の意向を打診している。俊成の存在を兼実も知らなかったはずはない。兼実の歌を賞でていたということも耳に入っていた。兼実は二人目の歌道の重鎮を迎えることにした。俊成の応諾は直ぐに翌二十七日にあった。俊成は、右大臣家に認められたことを「道の面目」と恐懼してお受けすることになった。
俊成が兼実と会うことになったのは四ヶ月ほど後の六月二十三日、雨の夜で、清輔の死からちょうど一年に当る。談話はかなりの時間におよび、深更に至って辞したと兼実はかき残した。兼実はこのころ、右大臣家主催の百首歌をあつめていた。兼実は自詠を俊成にも見せ、よき歌に点を付けさせ、その選歌を納得したのであろう。六月二十七日には俊成にもこの百首歌の作者となるよう要請したのであった。俊成はもちろんこれに応じ、直ちに百首を作成した。
※ ( )内は前の語句のルビ
|
|
 |
|