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新風への評価
  
 定家は自分の歌が「達磨歌」と誹謗されていることを知っていた。それは「拾遺愚草員外」の「韻字四季歌」の末尾に「文治建久のころより新偽非拠達磨歌と言われて、天下の人々に憎まれ問題にもされなかった」と述べている。しかしそれは、むしろ問題にされていたと言いかえてもおかしくはない。長明は御所での会の様子を「人々が思ひもよらぬ事ばかりを詠み出すので心底驚いた」と述べているが、そうした中でもなかなか理解にとどかぬもどかしさを持ったのが「幽玄の躰」であった。「まづ名を聞くより惑ひぬべし」と驚きをかくさず、長明としての理解を「ただ詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」と述べている。
 これはかなりみごとな解答で、老年の俊成がいう「―何となく艶にもあはれにも聞こゆる」風趣と近いものだ。俊成は承安二年(一一七二)十二月、「広田社歌合」の判者として、「幽玄」という評語を用いている。「海上眺望」という題の二番に実定と頼政が合せられた場面である。
   左 持
 武庫(むこ)の海をなぎたる朝に見わたせば眉もみだれぬ阿波の島山
                      前大納言実定
   右
 わたつ海を空にまがへてゆく舟も雲の絶え間の瀬戸に入りぬる
                        頼政朝臣
 この歌に対して、俊成はまず左歌は海上眺望という題を特に意識した様子もなく、ごく自然に三句まで叙景の言葉を連ね、下句に至っては文人としての気概を見せたように「眉もみだれぬ阿波の島山」と詠み上げているのはすばらしい。あの「黛(マユズミ)の色逈(ハルカ)ニ蒼海ノ上ニ臨(ノゾ)ミ」とか、「龍門ノ翠黛ハ眉(マユ)相(アヒ)対(ムカ)ヘリ」というような詩を思い合せ、何とも幽玄に見えることです」と述べている。
 歌枕として知られた武庫の海の朝の絶景として、はるかに臨む阿波の島山のかたちを、美人の眉を思い描きつつ、「眉もみだれぬ」と擬人化しつつ詠んでいる。一首を支えているのはこの一句で、それが中国の詩片を思い重ねることによって、景に文芸的な深みや味わいの深さを加え「何となく艶にもあはれにも聞ゆる」、「幽玄」の世界を思わせてくれるのが、一つの時代的な新しい詩性と感取されていたのである。
 しかし俊成がこの頃もっとも多用していたほめことばは「優(ゆう)」ということばである。定家や、御所の歌会の歌人たちが競った歌の目標とは少し距離があったようにも見える。

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