|
|
|
|
「六百番歌合」へ
|
|
|
清涼殿で行なわれた試楽のすばらしさは多くの人を感動させたが、翌日の本番となればまた格別である。楽人を乗せた船は池を漕ぎめぐり、管弦の楽の音や鼓の音がひびきわたり、舞楽も唐や高麗のさまざまな種類が次々と舞われた。帝が主催の盛儀であるからすべては大がかり、楽人は四十人。その一人一人がここぞと技を競い合奏する有様は、その音色ともどもこの世のこととも思われない。
紅葉のさまざまが風に散りかう風情の中に源氏の「青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ」とかかれている。殊に舞の終りにもう一度名残の手が演奏されるに合せて、最後の見せ場を演ずる趣はそぞろに寒気だつような出来ばえで、この世のこととも思われぬほどであった。
長々と賀宴の様子を述べたが、『無名草子』の女人たちが憧れとした「艶」の一つが、こうした三千の威儀(最高級の儀式の水も洩らさぬ帝威の発露)を背景としたものの中にあったことがわかる。しかし、読者は知っている。この美の背後には大らかな帝の愛を裏切るように、源氏は父帝の中宮藤壺を犯し、藤壺は源氏の子を身籠っていた。こうした人間のあやまちの、やる方もない情の混沌を加えて味わう「艶」の深さは、きわめて人間的な要素をもった格別なものといえる。
紫式部が創り出す「艶」の場面には、こうした人間の存在のやる方もない厚みを加えたものが多い。それをまた、『無名草子』の女性たちも、そしてもちろん俊成も味わいつつ賞でていたものと思われる。俊成の「艶」に関する発言で有名なのは建久五年ごろ催された左大将良経家の百首歌合(六百番歌合)の判詞である。「冬上」のうち、題は「枯野」で競われたもの。冬の歌では十三番目に当る。
左 女房(良経)
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
右 隆信
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ
この時、右の方人(グループとして援護する人)からは左歌の「草の原」というのは耳ざわりがよくない。普通は墓所などをイメージしてしまうという意見が出され、左の方人からは、右の歌は発想からして古めかしいと言われた。この時の俊成の判定のことば、「何に残さん草の原」というのは「艶にこそ侍めれ」というのであった。
※ ルビ
・方人:かたうど
・侍めれ:はべろ・めれ
|
|
|
|