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空穂との出会い
  ―空穂の俊成―
 「歌はただよみあげもし詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし」この俊成のことばの中で、心にとまり気になっていたのは、「何となく」ということばであった。この一語がない方が直截でよくわかると考えていたのである。しかし次第に、この一語があることによって、はるかに遠くなりつつある平安朝盛時の「艶」や「あはれ」の情趣を思うことへのゆとりが生まれ、何となくというゆるい気分の広がりの中で、よき時代の「艶」なる美感や「あはれ」の情緒を享受できるように思われるようになった。
 「何となく」ということばは、とても曖昧でありながら、ある情況の中に身を置いたとき、「何となく」感取することがあれば、それは大切な要素であるにちがいない。つまり「何となく」思うことや感じることは、総合的なものでもあり、時に核心を得ている場合もある。いわば、「何となく」は核心に迫る第一歩の感受力といえるのである。
 そうした感受力にふれてくる歌のなかで、それを詠じてみた時、何となく優婉な気分があっていいと思ったり、歌合などで読み上げられた歌に、上等な雰囲気のよさを感じたりすることがある。その歌こそ、まずはよい歌とよべる要素を持っているものだと俊成は言っている。感受力は人によってもちがうものだから一概にはいえないが、俊成が「古来風躰抄」をかき上げたのは建仁元(一二〇一)年であるから、頼朝が鎌倉に政権を樹立してから十年以上の年月が経(た)っている。すでに鎌倉幕府による武家の政治は時代を変え、京洛の公家や文化人には伝統の文化のみが誇りうる財産となった。俊成は「六百番歌合」の歌評の中で「源氏みざる歌よみは遺恨のことなり」とまで言っているが、その「源氏物語」が作られた時代からも二百年の時が経っていたのだ。
 平安朝の艶の実質ははるか彼方に消え、「あはれ」の情趣は現実の「あはれ」にまさりはしなかった。俊成の息子の定家がまだ若き日に、源平騒乱の予感の中で「紅旗征戎非吾事」と日記に記したことこそ、最も切実に、新しい時代感を内包した新しいことばを生み出す最前線の覚悟だったといえる。そして、艶や「あはれ」の文学的伝統美を、高貴な詩歌の神髄として憧憬させるために、「余情(よせい)妖艶」(余情幽玄も同じ)の美を唱え、その美を現実に、ことばとして示さなければならなかった。それはもちろん俊成が求めた世界と別のものではない。

※ 「経(た)って」および、「余情(よせい)」の( )内は前の語句のルビ