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俊成、九条家の歌の師となる
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『千載集』のような勅撰の集に定家の歌が八首も入撰するということは、当代の中堅としての地位を確定したということでもある。しかし定家だけではない。『千載集』初出の歌人で、のちに定家と歌を競うような歌人を、俊成はかなり意識して定家に見合う歌数を撰入している。ざっと見まわしても、式子内親王九首、良経七首、寂蓮七首、隆信七首、守覚九首、家隆四首、慈円九首、というように。明らかに俊成は、平家後の歌壇の形成にすでに心を動かしていたのではなかろうか。
安元三年〔一一七七〕六月、それまで右大臣九条兼実家の和歌の師範として信任されていた藤原清輔が亡くなった。兼実はその報に接し、和歌の道がたちまち滅亡するばかりに悲しみ落涙してその死を惜しんでいる。『袋草紙』や『奥儀抄』などの著作もある学者的な歌人であった。
兼実は清輔亡きのちも和歌の小宴を時々催しているが、作品についての評価にきちんとした根拠ある言葉を求めて物たりなく思っていたようだ。当時、歌人でもあり、また似せ絵〔肖像画〕の名手でもあった藤原隆信〔定家の同母、兄〕が斡旋して俊成を推すと、兼実も了承したので、俊成は「道の面目」と欣んでお受けした。兼実邸に俊成がはじめて参上したのは治承二年〔一一七八〕六月二十三日、雨の夜であった。この初対面によって、兼実は当時企画中であった百首歌の作者に俊成を加えた。俊成はたちまち歌稿をととのえ、翌七月には兼実に提出している。現存する「右大臣家百首」である。歌学の伝統を重んじた清輔ら六条家の歌風と、俊成ら御子左家(みこひだりけ)の歌風の余情幽玄とは真向対立の間柄として互いに挑み合う仲であったが、兼実はよく新しい師筋の歌風にも親しんでいったようだ。
ところで、定家らの若き日の歌柄はなかなか世の承認を受けられず、その言葉は禅問答のようにわかりにくいというので、「達磨歌」などと悪口をいわれていた時期もあった。その辺の事情を鴨長明の『無名抄』が簡潔によく解説している。「―ここに今の人、哥のさまの世々によみ古されにける事を知りて、更に古風に帰りて幽玄の躰を学ぶ事の出来(いできた)る也。」「―いはむや幽玄の躰、まづ名を聞くより惑(まど)ひぬべし。―詮(せん)は、ただ詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」と。
※ ( )は前の語句のルビ
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