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清輔と俊成の判詞(三)
  
 題「初雪」の六番をみてみよう。
   左持             俊恵法師
 めづらしくまたも見よとや吉野山桜が枝に降れる初雪
   右              道因法師
 待ちつけて雪見る今朝は故郷(ふるさと)の住み慣れしさへめづらしきかな
  左歌は「めづらしくまたも見よとや」とよめるは、春花をまた見よと思ひて侍るにや。いとさも聞えずぞ、雪をいへる心地し侍り。「心ざし内にありて、言葉外にあらはれず」などは、かやうの事にや。
 とある。この歌は本来二句切の歌だが、三句に歌枕「吉野山」が置かれているのが重く、三句切の読みもできてしまう。吉野山の桜の枝に降り積もった初雪が花のようにみえる珍らしい景がテーマであるのはわかっていながら、花の名所吉野山ゆえに「またも見よとや」にこだわりが生まれてしまう。「春花をまたも見よと思ひて侍るにや」と少し意地悪い突込みが入ってきて、本意は内にありながら、言葉としてそれが出来ていない、という決語となってしまった。ここでは「またも見よとや」が不充分な表現だったことを言えばよかったのではなかろうか。
 清輔の批評は細部にわたり具体的で納得がいく反面、語順を正せば叙述に近くなるのを避けなかったり、句の中に同じ助辞を二度使用することをいましめるのはよいが、一方で、物言いのありようを耳馴れた常套の歌語で落着かせようとするところもあった。例えば「物を思はぬ暁もがな」という願望の結句を「物を思はぬ暁ぞなき」がよいとか、「逢ふてふ夢」は「逢ふと見る夢」というように通りのよい物言いに改める方向である。
 それらは初心の人が歌の表現に馴れようという場面にあっては参考になったかもしれないが、言い馴れた表現を破って独自な表現へ出ていこうとする方向はさえぎられたことであろう。ただ、清輔も他の歌合では少しちがった評価もみせている。平家盛家の歌合では「心ありて見ゆれば」「心ばへいとをかしければ」などの評価で勝利を出し、また「姿」の整いや昔の歌を見るような古雅な味わいを賞しているが、勝利を出すまでにはなかなか注文が多く満点評価はない。清輔の学識がさわりになってしまうのであろう。

※ ( )内は前の語句のルビ